犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

外山滋比古著 『思考の整理学』 Ⅵ章より

2010-05-15 00:01:02 | 読書感想文
p.192~

 われわれがじかに接している外界、物理的世界が現実であるが、知的活動によって、頭の中にもうひとつの現実世界をつくり上げている。はじめの物理的現実を第1次的現実と呼ぶならば、後者の頭の中の現実は第2次的現実と言ってよいであろう。
 第2次的現実は、第1次的現実についての情報、さらには第2次的現実についての情報によってつくり上げられる観念上の世界であるが、知的活動のために、いつしか、しっかりした現実感をおびるようになる。ときとしては、第1次的現実以上にリアルであるかもしれない。知識とか学問に深くかかわった人間が、しばしば第1次的現実を否定して、第2次的現実の中にのみ生きようとするのは、このことを裏付ける。

 従来の第2次的現実は、ほとんど文字と読書によって組み立てられた世界であった。ところが、この30年の間に新しい第2次的現実が大量にあらわれている。テレビである。テレビは真に迫っている。本当よりもいっそう本当らしく見える。そして、そのうちにそれが、第2次的現実であることを忘れてしまう。ブラウン管から見えてくるものはいかにもナマナマしい。第1次的現実であるかのような錯覚を与えがちだ。
 現代のように、第2次的現実が第1次的現実を圧倒しているような時代には、あえて第1次的現実に着目する必要がそれだけ大きいように思われる。人々の考えることに汗のにおいがない。したがって活力に欠ける。意識しないうちに、抽象的になって、ことばの指示する実体があいまいになる傾向がつよくなる。抽象は第2次的現実から生れる思考の性格である。
 
 もっと第1次的現実にもとづく思考、知的活動に注目する必要がある。割り切って言うならば、サラリーマンの思考は、第1次的現実に根をおろしていることが多い。それに比べて、学生の考えることには、本に根がある。第2次的現実を土壌として咲く花である。生活に根ざしたことを考えようにも、まだ生活がはっきりしていないのだから致しかたもない。
 そういう学生が社会へ出て、本から離れると、そのとたんに知的でなくなり俗物と化す。知的活動の根を第2次的現実、本の中にしかおろしていないからである。社会人も、ものを考えようとすると、たちまち、行動の世界から逃避して本の中にもぐり込む。読書をしないと、ものを考えるのが困難なのは事実だが、忙しい仕事をしている人間が、読書三昧になれる学生などのまねをしてみても本当の思索は生れにくい。行動と知的世界とをなじませることができなければ、大人の思考にはなりにくいであろう。


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 上記の文章における「現代」とは、昭和58年(1983年)のことです。今やテレビはデジタル放送から3Dにまで進歩し、ブラウン管は過去の遺物となりました。「ブラウン管から見えてくるものはいかにもナマナマしい」という記述には隔世の感があります。そして、「第2次的現実であることを忘れてしまう」「第1次的現実であるかのような錯覚を与えがちだ」との指摘には、改めて戦慄を覚えます。

 「忙しい仕事をしている人間が、読書三昧になれる学生などのまねをしてみても本当の思索は生れにくい」という指摘は非常に耳が痛いです。せめて、第2次的現実であるメディアの「ベストセラーのランキング」には惑わされないようにしたいのですが、メディアを第1次的現実であるかのよう錯覚しておかなければ世間は生きにくく、しかも世の中から取り残されたように自覚せざるを得ないのが悔しいところです。