犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

『「少年A」 この子を生んで…』

2010-05-05 00:06:17 | 読書感想文
p.32~
 「Aは厳しく躾けられ、親の愛に飢えていた」とジャーナリストや心理学者、裁判官の方々は、口を揃えて言われましたが、私はむしろ、息子に構いすぎ甘かったために、あの子をあんなにしたのかもしれないと、今は正直思っています。あの子にあれ以上、どう接すればよかったのか? 親としての子供への愛情とは一体、何なのか? どういう具合に愛情を伝えればよかったのか? 
 私は何もかも分からなくなりました。自信も消し飛んでしまい、混乱し、毎日毎日、自分が情けなく悔しく、どこでどうあの子の育て方を間違えたのか、とそのことばかり自問自答を繰り返しているばかりです。

p.107~
 Aは自分の息子です。あんな凶悪事件を起こしても、怖いとも思わないし、憎いとも思えません。見捨てようとも思いません。でも、息子がやった行為を考えると、被害者の方々には死んでお詫びをするしか方法がないのではないか、その方がいいのではないか、と正直何度も思い悩むこともあります。
 息子は生きていますが、被害者の方々の掛けがえのない命は永遠に戻ってきません。やり切れない、永遠に変わることのない事実があります。私が死んで被害者の方々の気持ちが少しでも和らぐのであれば、いつでも死にたい。卑怯かもしれません。でも、お子様の命は何をしてでも償って償い切れるものではありません。今でもふっと死にたいと思う瞬間があります。

P.229~
 私が母親としてあまりに鈍かったのかもしれません。それとも、あの子は本当に二重人格の殺人鬼だったのでしょうか。私には分かりません。でも、一瞬でもAに疑いを感じたことはありませんでした。あれだけ側にいながら、事件を引き起こしているとは、想像もつきませんでした。愚かな親ですが、私はAが逮捕されて会えない間じゅうずっと、最後までAを信じてやりたかった。
 子供にそんな酷いことが出来るわけがない。いい子ではないけれど、百パーセント信頼し、愛していた息子を疑うことは、どうしてもできませんでした。私たちはAを止めることが、なぜできなかったのか。悔やんでも悔やみきれません。


**************************************************

 「被害者遺族」と「加害者家族」はどちらがより苦しいのかを比較することは無意味だと思います。人間はそれぞれ一度きりの人生を送っている以上、例えばある人にとっては会社の大事な書類を紛失したことが、またある人にとっては重要な仕事のメールやFAXの送信先を間違えたことが現に死に至る苦しみとなるのであり、この瞬間に他者との比較の概念が入る余地はないからです。
 これに対して、苦しみの「量」「大きさ」ではなく、「質」「方向性」を比較することはなお可能だと思います。私は、被害者遺族である土師守氏の著書と、加害者家族である少年Aの両親の著書を読み、全く学問的な裏付けのない自己流ですが、以下のような感想を持ちました。

 加害者家族も被害者遺族も、その瞬間から「なぜ」という問いが絶えず湧き上がり、自問自答が続く点は同じだと感じます。但し、その問いの質は全く違うように思われました。
 加害者家族の問いは、「なぜ気がつかなかったのか」「なぜ防げなかったのか」という点に収束し、究極的には過去に向かって何らかの原因を求めて苦しむという形にならざるを得ないようです。これは、社会学的な問いの形態であり、全人生を視野に入れていながらも、特定の部分に対して磁力が働く分析的な問いであると感じられます。
 これに対し、被害者遺族の問いは、「なぜ彼はここに居ないのか」「なぜ二度と会うことができないのか」という点に収束し、不可能を不可能を知った上で問い続け、苦しむという形にならざるを得ないように思われます。これは、純粋に哲学的な問いの形態であり、問う者の全人生を超えて、全宇宙・全存在に拡散してしまうような、問いそのものの所在が確定できない問いであると感じます。

 言葉の意味として先に知られている何物かを述べるための単語として、加害者家族と被害者遺族については差があることにも気がつきました。
 加害者家族については、「身の置き所がない」「胸をえぐられる」「信じたくない」などの表現が妥当し、衝動が内側に集中しているように思われました。他方、被害者遺族については、「足元が崩れる」「胸が張り裂けそう」「受け入れられない」などの表現があてはまり、衝動が外側に拡散してるように思われました。
 また、土師氏の著書で本村洋氏が述べていた「怒り、憎しみ、悲しみ、絶望……そういった言葉では言い表わす事の出来ない情状」は、加害者家族に対しては全くあてはまらないようです。この点は、加害者本人の反省・謝罪・更生が問いに対する究極的な解答となり得る加害者家族と、そうはなり得ない被害者遺族との絶望的な差であると感じました。さらに、被害者遺族が解答として加害者への厳罰を述べるや否や、「それは根本的な解決にはならない」という反論までついてくるという執拗さです。

 A少年の両親は、A少年には生きている資格がないと悩みながらも、生きて償いをさせたいとの苦悩を繰り返し記しています。これは、昨今の児童虐待で我が子を殺す親と比べてみれば明らかに倫理的であり、人の親として自己欺瞞のない心情と思います。
 他方、A少年の両親は、被害者や遺族に対しては繰り返し謝罪の念を書いていますが、ここには偽らざる自責の念と表裏一体に、「謝罪の念を示しておかなければならない」という意向が表れていることにも気がつきます。また、A少年の両親が被害者や遺族へのお詫びの言葉を何回も述べているのは、これが自発的な欲求ではなく、無しで済ませられるのならば済ませたいという本心が表れているように思われます。
 加害者や家族が、被害者や遺族への謝罪の言葉を全く述べないことは絶望的だと感じます。しかしながら、謝罪の言葉が述べられたとしても、そこに意識的な保身や計算を超えて、人間存在に避けがたく付きまとう心情としての反発の念や不当感が入り込んでいる瞬間を看破してしまうことは、さらに絶望的だと感じます。