犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

曽野綾子著 『太郎物語・高校編』

2010-05-01 23:53:03 | 読書感想文
p.118~
 人間の羞恥というものは、自分とは異なった他人の存在を認めているという証拠で、そこには、潜在的に価値の混乱があるということを承認しているからこそ、自分の判断に自信が持てなくてはにかむのである。しかしこのはにかみというのは大変大切なもので、逆に自分の決定に、疑いもなければ、不安も覚えない、という荒っぽい独善的な人間は決してはにかむことがない。

p.183~
 しかし、それにしても、この人生をやりなおせないということは、何という不合理であろう。いったい世の中の人たちは、何で、自分の職業や進路を決めたのか。「戦争だって、死んだ人と生き残った人とは運だよな。総理大臣になるかならないかだって運だよな。自動車に轢かれるか轢かれないかだって運だよな」。太郎は本当にそうだなあ、とは思うのだが、さりとて、万事、隅から隅まで運だと思うわけにも行かず、少しばかり努力をしてみては、あまりうまい結果がでないと「やっぱり運だよなあ」と思うことにしているのである。
 そして太郎はそう思う時、自分は骨の髄まで、「光栄ある一般大衆」の1人だなあ、と思うのであった。なぜならそのようにして、絶えず現実からいささかの逃避をすること、原因と結果の筋道を、ともすればごちゃごちゃにしようとすること、それこそまさに、優しい庶民の感覚なのだと思うからであった。

p.205~
 深刻な話だなあ、と太郎は思いながらにやにやしていた。辛い話を聞く時に、反射的に不真面目になるというのは、太郎の子供の時からの習性である。深刻な話というものは、実際重大なことだから、軽率にではなく、慎重に考えてかからねばならない。とすれば、最初からそれに溺れそうになるのを防ぐために、ずるずる引き込まれないためにわざと不誠実になっておくのである。この不遜、この冷酷さ、この非情さが、男にとって必要だということを、目下のところ、太郎は信じていたいような気がしているのである。

p.303~
 太古の人間、未開社会の人間、にとって、人間を殺すことは、1つの日常茶飯事的な行為であった。藤原の兄さんは、その、或る意味では、言葉にもあらわし難い「人間的」な行為をやってのけたのだ。「人間的」というとすぐ今の人たちは、よい事だけを人間的なことだと思う。
 しかし、人間的な属性の中には、さまざまな、身の毛もよだつ、おぞましい要素も含まれているのだ。それに目を塞いで、物を言うのは決してフェアなことではない。藤原の兄さんは、まさに、その「人間的」であることの極限にほうり込まれたのだ。微かに太郎は、その立場を同情し、嫌悪し、そして羨む。自分には、まだ、何もわかっていないという虚しさが襲って来る。


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 この本は、高校のときの課題図書でした。その当時にはわからなかった部分がわかったり、わかったつもりになっていた部分がわかっていなかったとわかったり、わからない部分はやっぱりわからなかったりして、同じ本を久しぶりに読むのは面白いと思います。それと同時に、現在の自分は高校生の自分よりも確実に歳を取っているはずですが、そのような実感が湧かないのも正直なところです。恐らく、本の中の高校生の太郎が全く歳を取らないことが可能であれば、本を読む人間はそれに従わざるを得ないのでしょう。

 私は高校の時にもまともな感想文が書けませんでしたが、現在でもこの本に関してはまともな感想文は書けません。それは、主人公の目線に立って一緒に思考してしまうと、何らの教訓も導き出せず、感想文を書こうとすると嘘になってしまうからです。人間の真実の姿だけを疑って考えようとすることは、身も蓋もない残酷なことでしょう。私は大学に行ってから、「人間を殺すことは人間的な行為である」という物の見方を忘れ、自分には何もわかっていないという虚しさに襲われることもなく、犯罪論・正義論を振りかざしていました。高校生の太郎よりも精神年齢は幼稚だったと思います。