犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「市民感覚」について

2010-05-21 23:51:48 | 国家・政治・刑罰
 今年の5月21日で、裁判員制度の導入から1年となりました。裁判員制度の導入の契機は、専門家集団による裁判の市民感覚とのズレ、裁判への市民感覚の導入ということでしたが、「市民感覚」とは何か、その言葉の意味が観念的に争われると、議論だけが激しくなって、何も結論が出ないという状態に陥るものと思われます。
 裁判員制度の1年間を振り返る新聞記事の中で、裁判官にとっては「日常的によくある事件」が、裁判員にとっては「普通にはあり得ない事件」であり、裁判官が驚いたという記事がありました。「市民感覚」とは、このような裁判官の驚き、さらにはその裁判官の驚きを見た裁判員の驚きの中に自然と示されるものと思います。
 裁判官が個々の事件に対して市民感覚を持ち得ないのは、そもそも頻繁に人事異動を行って特定の地域との癒着を防ぎ、多数の事件を割り振って裁判官を多忙化させ、個々の事件に対する感情移入の余裕をなくすことが、システムの運営にとって合目的的であるとの経験則と関係するように思います。すなわち、法治国家の裁判官は、1つの事件を人間的に深く考察することは期待されていないということです。

 以下は私の裁判所書記官としての狭い経験ですが、刑事部に配属された書記官も、「市民感覚」を失わなければ仕事にならないような部分がありました。仕事の中で出会う人の8割以上が被疑者・被告人です。そして、半年もすれば、「また傷害致死か」「また強姦か」という具合に慣れが生じ、ほとんどの事件が「日常的によくある事件」になってきます。
 「犯罪者に対して偏見を持ってはいけない、我々と同じ人間なのだ」という要請を遵守することについては、私も同僚も、それを完全に地で行っていました。接触する人の8割以上が犯罪者であれば、その思考は犯罪者が基準となり、犯罪を犯さないことの大切さに対して価値が置かれなくなってきます。そして、いつの間にか、「人は普通に生きていれば犯罪を犯して当然だ」という価値観から逃れられなくなっていました。
 この犯罪への免疫は、被害者の軽視という点にも連動していたように思います。日々被疑者・被告人の側から事実を見ていると、被害者の心情そのものが思考の枠組みから抜けていきます。そして、被害者の側から事実を見ていたのでは仕事にならないという現実的な要請が、市民感覚とのズレを動かし難いものにしていました。

 私は、刑事部での経験を積むにつれ、他の書記官と同じように、凶悪な事件に対してさらに鈍感になり、悲惨な現場の写真を見ても心を動かされなくなりました。残酷な殺人事件を前にして気分が悪くなっているようでは、素人の裁判員と同じであり、プロの名が廃るということです。
 死体検案書の写真の顔は、安らかに眠っているものあり、苦痛に歪んでいるものもあり、すべてが日常の1コマに組み込まれて行きました。それはある時には興味を伴っており、またある時には嫌悪を伴っていましたが、赤の他人の人生を他人事として眺めている点においては共通していました。解剖によって臓器がバラバラに置かれ、並べられている写真を見ても、その人の生前の姿を知らない以上、それはその臓器でしかなく、人の人生の形をしていないということです。
 私はその日も、ある交通死亡事故の裁判の記録を整理しており、いつものように実況見分調書の内容を細かく確認していました。実況見分調書については、現場指示(刑事訴訟法321条3項)と現場供述(刑事訴訟法322条1項、321条1項2号・3号)の区別が問題となるからです。その時、私は1枚の写真から目が離せなくなりました。それは、道路に落ちた買い物袋の中から、にんじんとじゃがいもが転がっている写真でした。

 被害者は40代の女性であり、妻であり、母親でした。にんじんとじゃがいもの写真は、彼女が夫と娘の夕食のために買い物に行き、献立を考えていた姿を、まぎれもない現実として私に突きつけてきました。さらには、そのにんじんとじゃがいもを切るはずであった包丁やまな板、料理が盛られるはずの皿、そして彼女の夫と娘との夕食の光景を強制的に突きつけてきました。その前日まで丁寧に記載され、その日から真っ白になった家計簿も突きつけられました。
 死体検案書の写真には生前の姿はなく、単に40代の女性というだけであり、そこには「妻」も「母」もありませんでした。ところが、にんじんとじゃがいもの写真には「妻」があり、「母」があり、夫と娘の夕食のために買い物に行く彼女の姿がありました。夫を愛し、娘を愛し、心を込めて料理を作っていたであろう1人の女性の人生がありました。そして、これからも平穏に続いていく家庭の姿がありました。私は、瞬間的に彼女の死を否定し、このような事故があるはずがない、何かの間違いだと結論付けました。
 私は今でも、その写真のにんじんとじゃがいもの色や形を鮮明に思い出すことができます。そして、私の「市民感覚」は、にんじんとじゃがいもです。