犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

パロマ元社長ら2人に有罪判決 湯沸かし器中毒死事件 その1

2010-05-16 23:46:56 | 時間・生死・人生
 パロマ工業製湯沸かし器による一酸化炭素中毒事故で、業務上過失致死傷罪に問われた元社長・小林敏宏被告、元品質管理部長・鎌塚渉被告に対し、東京地裁は5月11日、いずれも執行猶予付きの禁錮刑を言い渡しました。有識者によるそれぞれの立場からの論考は、各紙で尽くされている感があります。
 私は、これらの論考を読んで思ったことにつき、法律・裁判の現場で働く者にあるまじき感想を書いてみたいと思います。

 有識者の論考は、当然のように「人命尊重第一」と述べ、その舌の根も乾かぬうちに人命への感覚の鈍さを示しているように思われました。
 「消費者の視点に立った判決であり意義深い」などと断言されてしまうと、死者はもはや消費者ではない以上、その現実の前に絶望させられます。生きて帰ってくるのでない限り、「意義深い」ということはあり得ないでしょう。また、「製品自体の欠陥ではないのにメーカーのトップの責任が問われた異例の裁判」などと言われてしまうと、異例かどうかは死者にとってはどうでもいい話で、「人命尊重第一」ならばこのような表現はできないはずだとの感を強くします。
 「国際的基準にかなった判断」「世界的な流れ」といった論評も同じです。死者にとっては意味がありません。

 判決は、製品に欠陥がなくても情報を集めて回収すべきことを求めたものであり、経営者にとって厳しいとの評価もありました。しかしながら、それがどんなに厳しくても、親がこのような事故で我が子を亡くすことより厳しくはないでしょう。
 また、危機管理をどこまで広げなければならないのか、今後の企業は大変だとの指摘もありました。しかし、親が我が子に先立たれるほど大変なことではないでしょう。
 このようなことは、誰もが心の奥底では知っていることですが、世間で大声で言ってはならないことだと思います。あまりに身も蓋もない真実であり、人々の平穏な生活にとって有害となるからです。従って、「人命尊重第一」と言いつつ、社会制度の維持に支障が生じないように、周囲を嘘で固める必要があります。それは、人命尊重第一では社会は回らず、そのようなことは考えないほうが上手く生きていけるという暗黙の了解です。

 記事の中には、リスク管理でコストかかりすぎ、経済界からは悲鳴が上がっているとの現状を強調するものもありました。特に昨今の不況においては綺麗事を言っている余裕はなく、とにかく会社の業績のために1円でもコストを下げ、社員の雇用も安定させなければならず、進退窮まって悲鳴を上げる経営者もいることでしょう。しかしながら、親が我が子の骨を拾う悲鳴に比べれば、全く物の数ではないと思います。
 経済社会では、「人命尊重第一」を追求した結果としてビジネスチャンスを逃したり、利益よりも人命を優先してマーケティング戦略を怠ったりする経営者は、単に才覚がないとして嘲笑の対象となるだけでしょう。
 営利を目的とする企業において、「人命尊重第一」を掲げることは偽善であり、人の命が失われた時に初めて持ち出されるものと相場が決まっています。もしも、これが最初からできていたのであれば、企業は裁判で全く争わずに原告の請求を認めていたはずだからです。そして、それは現実に「人命尊重第一」ではない企業には望めないことです。

 ある程度経済社会の現実に揉まれた者にとって、「人命尊重第一」という言葉は、どこか稚拙に聞こえるように思います。そんな理想論を実行していては怖くて何もできない、起業家が萎縮してしまう、現実に経済が混乱したらどうなるのか、あまりに無責任だと言われれば、すべてその通りです。真実とは無責任なものです。従って、やはり世間では本当のことを言ってはなりません。
 経済の混乱、会社の業績低下や倒産、リストラの先に待っているのは生活・生存の心配であり、突き詰めれば「生・老・病・死」の問題です。そうだとすれば、実際に「人命尊重第一」は、自分自身の生命においては無意識に実行されているところだと思います。
 そのような自己保存本能が、いつの間にか「面倒な仕事は端折りたい」「楽して金儲けしたい」という方向の欲望に変質するならば、他者の人命に危険を及ぼすような不正改造を行うまでのハードルは非常に低いはずです。

(続きます)