犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

パロマ元社長ら2人に有罪判決 湯沸かし器中毒死事件 その2

2010-05-30 00:15:30 | 時間・生死・人生
 パロマの湯沸かし器が原因で亡くなった上嶋浩幸さん(当時18歳)の母・幸子さんが「あなたの死は無駄ではなかった」とコメントして涙を拭く姿が広く報道されていました。「無駄を省く」仕分けのニュースに日本中が覆われている中で、この言葉の意味を捉えるのは至難の業だと思います。経験者でなければ理解はほぼ不可能であり、私にも理解不可能です。
 人の生き様そのものは、何かを対象化して悩んだり、他者に何かを要求する態度とは異質のものです。少なくとも、上嶋さんの涙を同様の感受性を持って受け止められた人は、いわゆる「幸福な人生」を送っていない人だと思われます。
 このような裁判では、たとえ望んでいた通りの判決が出たとしても、心から喜べるということはないと感じられます。「正義は勝った」「今までの苦労が全部吹き飛んだ」「溜飲が下がった」ということもあり得ないようです。これは、例えば冤罪事件で無罪判決を得た被告人や支援者が、全身で喜びを表しつつ怒りを表明するのとは対照的のように思います。なぜこのように生き、このように死んだのかという問いは、裁判で解くことはできないからです。

 この事故などが設立のきっかけになった消費者庁については、情報の一元化が空回りしているとの指摘が多く見られました。省庁の縄張り意識が強く、縦割りによる対応の遅れなど簡単に改善できるものではないことは、多くの人が予想していたことであり、単にその通りの結果が生じたに過ぎないと思います。これは、企業も行政も「人命尊重第一」ではあっては運営に支障が生じるからです。
 このような消費者庁の現状に対し、困難を困難と知りつつ「人命尊重第一」を要求して済ませる論評は、やはり人命への感覚の鈍さが示されているように思われます。犠牲者の死を無駄にしないためには、消費者庁に当初の目的を実現してもらうことは当然のことです。しかしながら、親は消費者庁を誕生させるために我が子を生み育て、自分よりも先に死なれたわけではなく、この程度のところにゴールが設定されることは、絶望以外の何物でもないと思います。

 この判決から20日が経ち、他の多くの事件と同じように、人々の記憶からは急速に遠ざかっているように見えます。「社会全体で考えるべきである」「命の重さを1人ひとりが考えなければならない」という言い回しは、もはや嘘を嘘と知った上での社交辞令のようにも思われます。
 世間の常識はいつでも「暗いニュースばかりでは気が滅入る」「何か明るい話題はないのか」といったところであり、庶民が平穏に生きる上では、真実性の追求は有害となるようです。そのため、この誤魔化しの気持ちを下手に暴いてしまうと、社会の暗黙のルールに反したことになり、邪険にされて浮き上がるようです。暗いニュースは、他者の幸福を願う良心的な人々の善意を妨げない限りで存在が許されているからです。
 人は自殺せずに生きている限り死を望まず、不幸であると認識している限りにおいて幸福を求めているのだとすれば、ニュースを見る者は、上嶋幸子さんの顔に正面から向き合うことは耐えられないものと思います。息子を亡くした母親が生きている、その人生の存在自体の矛盾に一瞬でも気付いてしまえば、世間の常識が崩壊するからです。

 息子を亡くした母親に対して、周囲が立ち直りや癒しによる幸福な人生を求めることは、外形的には善意の形を採っています。しかしながら、その内実は単なる自己愛の発現であり、その心情は悪意にまみれているように思われます。幸福を求めずに真理を求める壮絶さを知りつつ、真理を誠実に生きるためには自らを偽る意味もないとの結論に至った者に対しては、世の中で語られる幸福論の99パーセント以上は無意味だからです。
 すべての偽善に対して自由なのは、死者に対する言葉のみだと思います。死者は何も返答しない以上、死者に対しては嘘をつく必要がなく、虚飾の余地もないからです。生きている者は、死者の前においてのみ正直であり得ます。そうだとすれば、生きている者同士で交わされる言葉は、死者に対して語られる言葉には敵わないはずです。
 親が我が子の骨を拾う取り返しのつかなさの前には、社会的な成功、富や名誉、夢や希望、幸福な人生などすべて些細な問題です。生活や生存を目的とする世間の常識は、この価値基準を否定しにかかりますが、これだけはいかなる幸福論でも太刀打ちできません。上嶋さんのコメントは、幸福を求めずに真理を求める壮絶さを経て、唯一の結論として絞り出されたものと感じます。経験のない私には、その深いところまでは理解不可能であり、茫然とするのみです。