犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「3・生きがいを求める心 ―自由への欲求」より

2009-12-26 01:10:57 | 読書感想文
p.66~

ひとの自由をしばるものは、外側のものばかりではない。人間の心のなかにある執着、衝動、感情などが、外側のものよりも、なお一層つよく深刻にひとをしばりつける。対人関係も、恩や義理などの力でひとを精神的な奴隷にする。その他、時間や運命などまで考えに入れたら、人間が自由を発揮する余地はどこにあるかと問いたくもなる。

たしかに、自由を得るためには、さまざまの制約に積極的に抵抗を試みなくてはならない。それが大へんだから「自由から逃走」することにもなる。これこれの事情だから、これこれの人間だから、だから自分は不本意な生活もしかたがない、とぐちっぽくあきらめて暮らすひとは多い。その顔には生きがい感はみられない。

自由から尻ごみする心の根底にあるものは、あの、安定への欲求、というものであろう。これはまさに自由への欲求と反対の極にあるようなものである。そしてこれも自由への欲求におとらず、むしろそれ以上に根づよい、基本的な欲求であろう。というのは、精神身体医学的にいっても心身のあらゆるからくりは、一応この安定、すなわちバランスを保とうとする方向に働くようにできている。

人類の歴史のなかでも、個性や主体性や自由の観念が力づよく打ち出されたのはルネサンス以後、それもルソーあたりからであり、日本ではやっと明治になってからとのことである。してみれば、自由への欲求そいうものがまだひよわいのも道理で、いざとなると安定ということがひとの心に支配的な比重を占めがちなわけもうなずけてくる。つまり人間には自由への欲求もあると同時に不自由への欲求もあると思われる。

しかしほんとうにえらばないで済むのかというと、少なくとも人間の場合は、厳密な意味では、すまないのである。たとえ宿命的と形容されるような苦境にあっても、いっさいを放り出してしまおうか。放り出そうと思えば放り出すこともできるのだ。放り出して自殺やその他の逃げ道をえらぶこともできるのだ。そういう可能性を真剣に考えた上でその「宿命的」な状況をうけ入れることに決めたのならば、それはすでに単なる宿命でもなく、あきらめでもない。一つの選択なのである。


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憲法学において、居住・移転の自由および職業選択の自由(日本国憲法第22条1項)の法的性質について論争があります。これらの自由については、かつては経済的自由権と考えられていましたが、現在の学界では精神的自由権の側面が重視されているようです。すなわち、居住・移転の自由については「色々な場所に住むことによって様々な経験をし、経験と知識を増やすことができ、自己の人間形成に資する」というのがその理由です。また、職業選択の自由については「人はいかなる仕事に就くかを選ぶとき、自己の持つ個性を全うすべき場を探しているのであり、時には給料の高さよりもやりがいを求める」というのがその理由です。

さて、完全失業率が5パーセントを超え、完全失業者が300万人を超えた現在の格差社会においては、上記のような憲法学の論争は何の役にも立たないでしょう。派遣切りに遭って失業し、求職しても求職しても不採用の連続で精神的に追い込まれている人にとって、「職業選択の自由は精神的自由である」もクソもないと思います。また、家賃が払えずにアパートから追い出され、目の前の交通費もなく路上生活に追い込まれている人に対して、「居住・移転の自由は精神的自由である」と言っても的外れでしょう。そうかと言って、憲法学がこれらの権利の経済的自由の側面を見直すというのでは、単に経済状態を後追いしているだけの話で、そこには何の思想もないと思います。

神谷氏の自由に関する洞察は、上記のような憲法学の自由権に関する論争よりも、はるかに現代社会の問題を上手く説明しているように思います。すべての人間を幸せにするはずの自由主義を追い求めた結果として、なぜか格差社会の真っ只中で生きてしまっている人が切実に抱えている問題は、「人の自由は外側よりも内側から縛られる」ことであり、「人間には不自由への欲求もある」ことであり、「人間の自由は自殺の自由も含む」ことだからです。日本は自殺者が11年連続で3万人を超えたというニュースを聞いて、ふとそんなことを考えました。