犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

飲酒運転を繰り返す被告人の国選弁護人に選ばれた新人弁護士の心理状態について  前半

2009-12-17 00:06:03 | 実存・心理・宗教
「社会人」という言葉が改めて使われる時には、それが使われなければならない独特の状況に直面している時が多いように思われます。簡単に言ってしまえば、人間としての直観的な良心に照らして割り切れないにもかかわらず、目の前の生活のために妥協せざるを得ない場合、それを無意識に正当化しているような状況です。「社会人」とは、好きな仕事に囲まれて幸せな毎日を送っている人ではなく、やりたくない仕事であっても辞めてしまえば給料がもらえなくなるため、嫌々ながら仕事をしている人の別名ではないかとも思います。

国選弁護の仕事は順番に回ってきます。飲酒運転を繰り返して逮捕・勾留され、起訴された被告人から保釈の依頼があった場合、弁護士としては直観的に良心が咎めるのが普通だと思います。自らの行為の反省もそこそこに、保釈の要求ばかりするような被告人は、今後も飲酒運転をして人身事故を起こす危険があるからです。何よりも、これまで飲酒運転の犠牲になった人々が浮かばれません。しかしながら、被告人が現に保釈を請求し、被告人の親族が保釈金を用意しているにもかかわらず、弁護人が保釈請求をしなければ、弁護過誤であるとして懲戒請求を受ける恐れがあります。また、被告人が再度飲酒運転をして事故を起こしても、それだけで弁護士が懲戒処分を受けることはありません。ゆえに、ほぼ100パーセントの弁護士は、被告人の依頼に従って、裁判所に保釈請求をします。この正当化の論理において、潜在的に「社会人」は姿を表します。

そうは言っても、飲酒運転を繰り返しながら保釈を請求する被告人の言い分は、普通は説得力がありません。どの弁護士にとっても、第一印象は、「こいつは救いようがない」「弁護のしようがない」という状況が多いかと思います。人間の普通のバランス感覚からして、被告人の要求は虫がよすぎるからです。「保釈されないと会社を休んで迷惑がかかるんです」と叫んだところで、普通は「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミが入るでしょう。また、「持病があるので掛かりつけの医者に行きたいんです」と叫んでみても、やはり「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミが入るでしょう。はたまた、「家族が私の帰りを心配して食事も喉を通らないんです」と叫んだところで、やはり「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミを受けて終わりです。

しかし、刑事弁護人としては、これでは保釈請求書が書けません。弁護士の仕事は、被告人を保釈してもらうことですから、嫌々ながらも裁判所によって決められた型通りの書類を仕上げなければなりません。仕事というものは、自分がやりたいことではなく、やらなければならないことをすることだからです。決められた目的に向かって、与えられた職務を全うしなければなりません。これが、お金をもらって働く「社会人」です。但し、仕事というものは、嫌々やってばかりでは身が持たなくなるというのも半面の真理です。そのため、嫌な仕事でも真面目に取り組んでいるうちにいつの間にか面白くなっていたという状況も、「社会人」の別の側面として生じてきます。ゆえに、刑事弁護人としても、「被告人は弁護のしようがない」では身が持たないため、「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミを一旦引っ込めます。すると、不思議なことに、目の前の事態はガラッと変わります。