犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞「オーサー・ビジット」 養老孟司氏@愛知県立岡崎高校

2009-12-12 23:55:12 | その他
解剖学者の養老孟司さんは、黒板をフルに使っていた。〈同じ=オナジ〉と板書し、「ふたつは、同じ?」。くすっと笑い声が起きる。黒板を消し、今度は〈A〉と書く。「いまは、うっかりすると個性を伸ばすとか言うでしょう」。さらに隣に、ノッポに伸びた〈A〉の文字を並べると朗らかな笑い声が。

質問タイムになると次々と手が挙がった。「インターネットの世界がすべて過去だとすると、現在って何なんですか」。「ネットの記述は過ぎ去ったことばかり」「現在ほど、若者が過去にはまりこんでしまった時代はない」。養老さんの話に混乱した様子の生徒から出た質問だ。養老さんは、質問者の目をじっと見ていう。「ほら、こうして話している、この瞬間じゃないか」。「これ、この時間だよ」と養老さんが念押しすると、アハハと笑い声が起きた。

なかなか生徒が納得できずにいたのは「個性」について。養老さんは、比叡山の「千日回峰行」を例に挙げた。「誰も追跡するわけじゃないのに、なんで千日も山の中を歩きまわるのかわかる?」。生徒たちは無言だ。〈本人〉と書いた。修行は、他人に誇示するためにするのではない。ひとのやらないことをしたと「自分」で納得するのが修行。「個性」もまた、誰かにアピールするようなものではない、と説明する。


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「ネットの記述は過ぎ去ったことばかりである」という命題においては、日記形式のブログほど、この真実があてはまってしまうものはないでしょう。ブログを辞める理由のベスト4が、「ネタがない」「飽きた」「忙しい」「アクセスが少なくてやる気がなくなった」だと聞いたことがあります。確かに、1年前の記事を見ても2年前の記事を見ても「今年もヽ(゜Д゜;)ノ!!あとわずか! _| ̄|○」とか「もうすぐ♪クリスマスがやって来る ゜:♫;☆⌒v⌒v⌒ヾ」と書いてあるのを発見すれば、今後もブログを続けることに一抹の疑問を感じるはずだと思います。

「ネットの記述は過ぎ去ったことばかりである」という命題において、ブログの意義は、思考の深まりや試行錯誤の過程を示す点に求められると思います。しかしながら、私が見出したブログの最大の意義は、「いずれ時が悲しみを癒してくれる」という言葉への反証です。もちろん、「時は悲しみを癒さない」と断定するわけではありません。日々のブログの記述は、時の流れそのものの足跡であるところの日記において、色々試してみてはその苦しみや悲しみが到底人一人の力では抱えきれないことを改めて示しており、それが人が生きることそのものになっているような、「過ぎ去ったこと」を示しているのだと思います。