犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島義道著 『生きにくい・・・ 私は哲学病。』

2009-12-27 23:59:42 | 読書感想文
p.103~ 「ミレニアム騒ぎの虚しさ」より

年末から世の中はミレニアムとか2000年とかで大騒ぎであるが、私には何のことだかわからない。というより、とてつもない違和感を覚える。とくに2つの点に関して。その1つは、これほど時間について語りながら、誰も「時間とは何か」を真剣に問おうとしないこと。そしてもう1つは、21世紀とか1000年後とか涼しい顔をして語っていること。あと1000年したらあなたは確実にいなくなるのだ。このすさまじい虚しさから懸命に眼を逸らして、人類の将来や21世紀の日本についてばかり語るあなたは欺瞞的である。

なぜ、誰も自分が完全に消滅している将来の虚しさについて真剣に語らないのか。何百億年もの宇宙的時間の中で、たった数十年の命を与えられているこの存在の虚しさを、じっくり考えようとしないのか。うすうす気づきながらも、ごまかしたいからなのだ。あまりにも恐ろしいので、ごまかし通して死にたいからなのだ。こうした薄汚い態度は、社会に適応して安全に生き、まずまずの幸福を得るための知恵である。そして、ここに時間に追われる人生という悲喜劇の幕が切って落とされる。

最近、身体の底まで哀しかったこと、それは2000年を迎えたミレニアムに歓声を上げる人間たちの姿であった。嬉々とした顔々、欣喜雀躍とした挙動、さらにそれを解説するテレビリポーターの興奮した声々。次のミレニアムには、今喜びに浸っている人々はひとり残らず地上から消滅してしまっているのだ。そのことをちらりとでも考えれば背筋が寒くなるはずであるのに、この空騒ぎはいったいどうしたことであろうか。ひとえにごまかしているからなのだ。みずからの存在の虚しさを見ようとしないからなのだ。しかも、そこに「希望」といううさんくさい言葉を掲げて、自己麻酔をかけているからなのだ。

ミレニアムとは、人生の儚さをまともに実感させられる時である。いかなる理屈をつけようと、あと数十年で自分はこの宇宙から跡形もなく消えてしまう。そして、その後(たぶん)永遠に生き返ることはない。やがて、人類は絶滅し、太陽系は砕け散り……その後宇宙はいつまでいつまでも存続しつづける。とすると、この自分が生きているということに、いったい何の意味があるのか。日ごろごまかし続けて生きている人々も、まさにこの年末に1000年という残酷な時間単位を見せつけられて、こうした疑念が一瞬心の底で閃くのを看取したはずであろう。だが、たちまち忘れてしまう。いや、忘れようと意志してしまう。


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これは、今からちょうど10年前に書かれた文章です。この時期にこのような文章を思い出す私は、中島氏が言うところの「哲学病患者」でしょうが、10年という期間を10年として普通に計算している限りは、その症状はごく軽い(甘い)と思います。それでも、世間的な常識が「10年後の日本」や「10年後の自分」を語りつつ、「10年前の『10年後の日本』」や「10年前の『10年後の自分』」を語ろうとしないことに対しては、やはり中島氏と同じような違和感を覚えます。また、10年前のミレニアム騒ぎを思い出すこともなしに、「明日のエコでは間に合わない」「未来の子供たちに美しい地球を残そう」などと語る姿勢には、どうしても欺瞞的な匂いを嗅ぎ取ってしまいます。

この10年間には、「100年に1度の不況」もありました。このフレーズは、一回使ってしまうと論理的に100年は使えないはずなのですが、恐らく不況が来るたびに繰り返し使われるでしょう。ちなみに、この10年の経過で、早くも次のミレニアム(3000年)までの1/100が過ぎたことになります。この10年があと99回繰り返されれば3000年です。10円玉が100枚で1000円札と等しくなることと比べてみれば、そんなに先のことでもないような気がします。その先の4000年、5000年も同じことでしょう。とりあえず私は、娑婆では時間をしっかりを守って怒られないようにし、逆に他人が時間に遅れた場合にも怒らないようにし、ストレスを溜めないで適当に生きています。