犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

修復的司法の問題点 その7

2009-12-15 23:51:51 | 国家・政治・刑罰
高橋則夫著 『修復的司法の探求』 
p.1~ 「はしがき」より

学会報告後、数年経って、修復的司法というという言葉が、まさに世界を駆けめぐったのであるが、損害回復の問題がこの修復的司法の問題の一部であることを知って驚いたのは、何を隠そう自分自身であった。自分の研究が時代の潮流に押し流されているのを感じたのはこの時である。

もっとも、すでに、修復的司法の問題に関心を抱いている学者、実務家は、少なからずいたのである。そして、膨大な文献と世界各国の展開をフォローするためにも、若い研究者や実務家を集めて研究会をつくろうではないかという「共謀」が成立し、2000年にRJ研究会を発足させたのである。すでにいくつかの企画が予定されており、これが続々刊行されることによって、修復的司法の理論と実践が今後さらに展開していくことであろう。

修復的司法は、最近では、各雑誌の特集のテーマになったり、実務家の方々の実践も開始されたり、若い研究者も研究テーマにあげたり、流行のテーマとなっているようであるが、流行は急速に去りゆくものである。一時的な流行に終わらせないためにも、修復的司法の理論と実践を着実に進展させなければならない。

そのためには、様々な人々との共同作業が必要となり、一種の共同体の形成が必要となろう。リベラルな共同体論に立脚する修復的司法を研究するために、研究する側において一種の共同体を形成しなければならないというのは、何と興味深いことであろうか。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

中島義道著 『差別感情の哲学』 
p.172~ 「あらゆる『賞賛』に冷淡であること」より

私は地上のありとあらゆる「賞」を嫌悪するようになった。誰がいかなる偉業を成し遂げようともそれほど感心しないのである。いや、それを讃える人々、それに応える英雄たちの喜々とした顔に、善くないもの、真実でないもの、美しくないものを見てしまう。それが、いかに人類のためになろうと、いかに謙虚で地味な研究であろうと、人は自分の仕事に関して「誉められること」を承認してはならないと思うのだ。

数年前にニュースで知ったのだが、近所のスーパーに幼い子供を2人連れて車で買い物に来た主婦が、駐車場で子供をいったん降ろしバックして車を停めたところ、2人の子供はその車の下敷きになって死んでいた。その母親が自殺せずに後悔と自責に塗れて生き続ける尊厳に比べれば、いかなる受賞者のなした偉業もほとんど無であるように思う。

かなり昔の事件であるが、ある出版社に勤める中年の男が息子の家庭内暴力に疲れ果てて、息子の睡眠中その頭を金属バットで滅多打ちにして殺した。夫が息子を殺した衝撃から、夫の妻は首吊り自殺を図った。夫にとって、あるいは残された娘にとって、人生とはなんと過酷なものであろう。「なぜ自分たちにこの人生が与えられたのであろうか?」と天に向かって叫びたいことであろう。

こういう人は、まさに地獄のような人生を生き抜いたとしても、誰からも誉められず、むしろ中傷され、非難され、迫害され、耐えに耐えしのんで、そのまま死ぬのである。私は、誰がいかに偉大なことを成し遂げても、こうした人々の偉大さの足許にも及ばないと心の底から感じる。そして、カール・バルトの言葉がますます心に染み渡る。「人間を人間仲間のあいだにあって、すばらしく思わせるものはすべて仮面である」。


***************************************************

別に高橋氏の文章と中島氏の文章を比べてどうなるわけでもありません。どうしても比べてみたくなっただけです。

中島氏の文章は、私の心に「ずしん」と来ました。高橋氏の文章は「ずしん」と来ませんでした。修復的司法の問題点とは、この違いのことだと思います。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。