犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞「オーサー・ビジット」 姜尚中氏@聖和学院高

2009-12-13 23:17:48 | その他
「他人との関係を考える前に、まず自分自身とのかかわりについて考える必要があります」。話しながら黒板に「自己内対話」と書いた。「人間には、自分を見つめる、もうひとりの自分がいる。その内なる自分が『それでいいのか』と語りかけてくる。対話することで自己を省みるのです」。

姜さんによれば、自己内対話がないと、他者とつながるのは難しい。たとえば、携帯メール。反射的に返事を送るのが常識と思っている人も多い。しかし、着信と返信の間に自己内対話を差し挟む余地がないと、やりとりは手軽だけれど心に届かないものとなる。

逆に、他者とのかかわりがないと、自己内対話が続かない。秋葉原の無差別殺傷事件では「彼は誰とも本当の意味でかかわれず、社会とのきずなを実感できなかった。だから自己内対話も打ち切って、犯行に走ったのでしょう」。姜さんも、悩み多き思春期を過ごした。「自分の居場所がなくて苦しんだ時期は、本ばかり読んだ。読書で自己内対話を深めることができました」とまとめた。


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「人は孤独でも生きられる」という言い回しは、逆説的なニュアンスを含んでいるように思います。そうかと言って、「人は孤独では生きられない」と言ってしまえば、いかにも軽薄なニュアンスを含んでしまうようです。

自己内対話を繰り返した末に絞り出した言葉が、全く思ってもいないような方向で解釈されてしまうことは、単なるすれ違いを超えた激しいショックをもたらすものだと思います。特に、問いの共有を求めて発した言葉に対して、「そんなにご自分を責めないでください」という回答が返ってきてしまえば、アホらしくて返事もしたくなくなるのが普通でしょう。もうひとりの内なる自分が、自分を冷静に客観視して記述することは、自分で自分を責めることとは全く別だからです。

問いの共有を求めて発した言葉に対して、「もうあなたの中に答えは出ているのではありませんか」という答えが返ってくるのも、非常に脱力する瞬間だと思います。自問自答を経て、内なるもうひとりの自分が自分に言葉を語らせているのに、そのこと自体が伝わっていないからです。結局、言葉が心に届くか届かないかの違いは、自己内対話を経た者同士、すなわち自分の中のもうひとりの自分同士の対話による一瞬の判断ではないのかと思います。