犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

飲酒運転を繰り返す被告人の国選弁護人に選ばれた新人弁護士の心理状態について  後半

2009-12-25 23:57:15 | 実存・心理・宗教
(前半はこちら)
http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/d/20091217

被告人による「保釈されないと会社を休んで迷惑がかかる」という悲痛な訴えは、ツッコミを引っ込めるや否や、恐ろしいほどの説得力を持つことになります。警察の留置場に入っていれば会社に行けず、そうすると同僚が被告人の分まで仕事をしなければならない。被告人は1日も早く会社に出勤して溜まった仕事を片付けないと、会社の同僚は深夜まで残業となり、その家庭まで巻き込んで滅茶苦茶になる。この論理関係は確かに存在しており、動かしようがないからです。被告人が保釈されさえすれば、確かにこの問題はすべて解決します。また、「持病があるので掛かりつけの医者に行きたい」という懇願も同じです。持病を治療しなければならないことと、飲酒運転の裁判を受けることは全く別の話であり、論理的に両立するからです。さらには、「家族が私の帰りを心配して食事も喉を通らない」という点は、目の前に動かぬ証人が存在しており、疑いの余地がありません。しかも、現に100万円以上の保釈金を用意し、涙ながらに「お願いします。先生だけが頼りなんです」と頼み込んでいる状況においては、すべての責任は弁護士の肩に重くのしかかってきます。

ここまで来ると、弁護士の保釈請求は、もはや嫌々ではありません。この自分に重い仕事を任せてもらった人のために、親身になって働くことが、「社会人」に課せられた義務であり責任だからです。それと同時に、保釈が取れなければ腕が悪い弁護士であると評価され、あらぬ噂が広まってしまう恐れがあるため、容赦ないプレッシャーにも追い立てられます。こうなると、保釈請求書はスラスラと書けます。被告人が保釈されることが正義であり、その目的にとって障害となる検察官は最大の敵となります。被告人が会社を休んで迷惑をかけているというのに、検察官は会社の同僚の負担のことまで考えているのか? 被告人の病状がひどくなったら、検察官はいったいどう責任を取るのか? 被告人の家族は取り乱して非常事態にあるというのに、検察官は何をのんびりしているのだ? もはやツッコミは被告人の行為に向けられたものではなく、検察官に対するツッコミとなり、しかも結論先取りの反語の問いとなります。こうして、無事に保釈請求書は書き上がります。

最後の関門は、裁判官との保釈面接です。交渉事というものは、迷いなく、自信を持って言い切らなければなりません。周りが全く見えなくなる状態で、とにかく被告人の保釈の許可を得ることだけを目的として、駆け引きの技術なども駆使して、すべての言動を組み立てなければなりません。それが、弁護士として飯を食っている「社会人」の義務だからです。被告人の家族からは、保釈の進行状況について数時間おきに問い合わせの電話があり、そのイライラが電話口から事務所全体に伝わってきます。こうなると、保釈が取れるか取れないか、弁護士も神経を尖らせてその瞬間を待つことになり、緊張は頂点に達します。弁護士の周囲の空気はピリピリして容易には近付きがたい雰囲気となり、すべての事務員はイェスマンとなり、被告人の保釈を疑う者は誰一人いなくなります。事務員の誰もが、「被告人は心から反省しているのに保釈されないのはおかしいです」と語ります。「飲酒運転の車は走る凶器です」などと語る事務員は誰もいません。ゆえに、保釈を却下するような裁判官はバカであることが事務所内の全会一致の見解として確立します。

さて、問題は、保釈の結果(許可・却下)が出て一息ついた後のことです。「社会人」は、それがどんな嫌な仕事であっても、真剣に取り組んでいるうちに面白くなってしまうという状況から逃れられない限り、上記のような心理状態に陥ることはやむを得ないと思います。問題は、冷静になった時に、それを批判的に見られるかどうかです。そして、新人弁護士がどちらの方向に行ってしまうかは、周りの先輩弁護士の指導によって、実に紙一重であると思います。いかなる「社会人」であっても、ひとたび自己批判精神が欠如してしまえば、暴走が止まらなくなるのはよくある現象だからです。誰しも冷静な状態においては、飲酒運転をしながら自己の都合で保釈を要求する者に対しては、「だったら逮捕されるようなことするなよ」とのツッコミを入れることが可能でした。このツッコミを一旦引っ込めたことにより、いつの間にか自分がツッコミを受けるような行動に加担していたことに対し、自分自身にツッコミを入れることができるか。これが自己批判精神の内実であると思います。

自分が行った保釈請求が、被告人の反省を妨げ、図らずも社会における飲酒運転を助長しているのではないか。これでは過去の悲惨な飲酒運転の事故で亡くなった方々があまりに浮かばれないのではないか。そして、社会から飲酒運転が完全になくなってほしいと全人生を賭けて願っている事故の遺族の方々に対してあまりに無神経なのではないか。このような問題の所在は、自己批判精神を失った刑事弁護活動からは全く見えません。ちょうど、電車の中で携帯電話で話している人が、通話相手に対しては細心の注意を持って言葉を選び、失礼のないように全神経を集中させていることによって、周りの乗客のことは完全に眼中から排除されている状態と似ています。ここまでならば、誰もが陥る人間の当然の心理状態ですが、刑事弁護においては「人質司法の改善」「人身の自由の保障」といった絶対的なイデオロギーがあるため、永久にツッコミが戻らなくなることがあります。こうなると、「社会から飲酒運転が完全になくなってほしい」という言葉が、生きた言語として伝わる可能性は皆無となります。「弁護人が保釈請求を行うことが被害者や遺族に絶望をもたらしている」という事実を前にしても、「絶望するのは誤解だ」「絶望するのは法律を理解していないからだ」という感想しか出てきません。これは、飲酒運転や被害者保護を軽く考えているわけではなく、精一杯重く考えてもこの辺りが限界という事態であり、相互理解はまず不可能と思います。

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