犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

星野博美著 『銭湯の女神』より

2009-12-08 01:05:03 | 読書感想文
p.96~ 「芸術といういい加減な存在」より

香港の芸術家たちもよく留学する。韓国と異なるのは、香港がイギリスの植民地であったという土地柄、留学先はイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどが多い。香港で展覧会に行くと、作家のプロフィールには必ずといいほど欧米の美術系大学の名前が並ぶ。そんなに学歴増やしてどうするの、と思った。

もちろん私は、外国へ留学することの是非を問うているのではない。留学おおいに結構。ただ、ことアジアの芸術界に関しては、「海外で勉強してきた」という理由だけでステイタスが一段上がるという傾向が根強くある。そして海外へ留学できるのは、経済的に余裕のある富裕層にどうしても限られてしまう。富裕層が芸術をたしなみ、海外で学を重ね、帰国すればまた富裕層にそれを伝達していくという、不健全なサークルを描いていることが、私は気になる。

日本はといえば、アジアの芸術界と比べたらもう少し裾野は広く、機会の分配という点では民主的といえるかもしれない。それでも、作家としての才能より、政治性の有無が活動の場を広げる鍵になるという現実はやはりある。作品を作ることと、人脈や派閥の中で生きることに費やすエネルギーは本来別ものなのだが、制度に費やしたエネルギーのほうが高く評価されることは往々にしてある。この傾向はそのまま、その地域の文化の成熟度を表しているといえるだろう。

芸術は金がかかる。そのくせ、一握りの大天才か、あるいはよほどの政治性を備え持った人間以外、投資した金額を回収できる人は少ないというのも、芸術活動の特徴である。すると当然、最初からそのリスクに賭けられる人間、つまり金に余裕のある人たちがアドバンテージを握ることができる。芸術はいつも経済とは別物のような涼しい顔をして、高みに立って我々を見下ろしているが、芸術活動ほど経済世界をそのまま体現した世界も、実はない。


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あらゆる種類の芸術(絵画・造形・音楽・小説・詩など)において、ある人が他者に向かって自分の作品を発表している以上は、「自分を見てくれ」という欲求の発現から逃れられることはないでしょう。それだけに、経済活動をそのまま体現した芸術活動の世界にとって、一番恐ろしい存在は、他人に媚びない作品を創る人、名声に無関心である人、他人から評価のための作品を創らない人だと思います。

芸術はお金がかかり、自分の好きなことばかりしては食べていけないという種類の悩みは、古今東西の芸術家につきものでしょう。このレベルの悩みにおいては、自らの狂気を作品にして示すことも、一種の自己顕示欲の発現に他ならないと思います。これに対して、この芸術活動をしていなければ自分は狂ってしまう、生きることと制作することが完全に一致しているという人においては、今さら他者から作品に値段をつけてもらうことなど望まないでしょう。このような芸術活動のみが、経済活動から自由になれるのだと思います。

中野孝次著 『すらすら読める方丈記』より

2009-12-05 23:13:30 | 読書感想文
p.143~

何事でも人は他人を意識し、他人との対抗意識、競争心、せり合いから、とかく相手にぬきんでようと図る。バブル経済のころ、隣が新型のテレビを買えば、それより大きなのを買おうとし、向うが最新型セダンを買えば、こちらはもっと排気量の多いスピードの出るのを買おうとあせり、そういうことで絶えず新商品の宣伝に乗せられた。そういう欲望の熱鬧が高度経済成長を作り上げたのだが、バブルがはじけ、長い不況がくると、なんであんなものを買いたがり、他人との競い合いに血眼になったのだろうと、欲望に浮かされていた自分をふしぎがるようになった。

そして初めて、他人を意識し、他人との競争に明け暮れることの空しさに気づく。大事なのは自分であって、自分にとって何が必要で何が不要か、それを見定め、自分のために生きるのが当り前なのだ、と考えるようになる。基準は他人ではなく、自分にあるのである。それがこの「われ今、身の為に結べり。人の為に造らず」なのだ。人を気にするな、自分のために生きよ、である。ただしこの自分のためには、エゴイズムの満足ではなく、自らの心のため、心の自由のために生きよ、ということだが。


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参考 朝日新聞 12月5日付 『勝間和代の人生を変えるコトバ』より

「行動を選択した時、結果も選んでいる」。この言葉は、私が訳した『史上最強の人生戦略マニュアル』に出てきたもので、自分の行動の指針にもなっています。すなわち、私たちの人生の結果は、自分が選んだ行動の関数で導き出されるということです。その行動とは、単に動作を指すだけではなく、発言も含めて、あらゆるアクションが含まれます。だからこそ、私たちは望む結果を目標とし、自分に対して言葉に表して明示することが大切になります。なぜなら、そうすることで、自分が無意識に、その結果の方向へ向かって行動するようになるからです。

私は毎日、自分の手帳に自分の行動を時間とともに記録しています。なぜなら、将来の自分の結果は、この毎日の行動が積み重なって、数カ月後、半年後、数年後に顕著な差になって表れるからです。お金をためたいと思う人は使ったお金を記録すべきでしょう。なにか目標を達成したいと思う人は、その目標に向かって適切な行動を取っているのか記録すべきです。そして、定期的にその行動が自分の目指す結果に沿っているのか見直しを行います。結果を出したい人は、まず行動を管理すべきです。


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中野氏の言葉と勝間氏の言葉を並べてどうなるわけでもありません。ちょっと並べてみたかっただけです。

中野孝次氏の『清貧の思想』がベストセラーになり、「清貧ブーム」が起きたのは平成4年のことでした。その中野氏も平成16年に亡くなり、今では一時期のブームの影もありません。他方、ここ数年は「勝間本」がベストセラーになり、「勝間式」「勝間語」「勝間流」が全国津々浦々まで支持を集めています。

他人ではなく自分が問題であり、基準は他人ではなく自分自身にある。この徹底した自己中心の姿勢において、中野氏と勝間氏は同じ言葉を述べていて、そのベクトルが正反対を向いているのは面白いところです。そして、迷える人々に具体的な指針を与える「人生哲学」としては、圧倒的に勝間氏のほうが受け入れられやすいようです。それが、この自分と他人の人生が寄り集まった世間というものだと思います。

中島義道著 『私の嫌いな10の言葉』  宮崎哲弥氏の解説より

2009-12-03 00:02:49 | 読書感想文
p.246~

例えば「人は死ぬ限り幸福にはなれない」。ずいぶん身も蓋もないいい様だ(笑)。しかし本当のことである。私も子供の時分からそう思ってきた。例えば「革命してもどうせ死ぬ」ともいう。そう。どんな偉大な革命を成し遂げようが、未曽有の大事業を完遂しようが、不世出の英雄となろうが「どうせ死ぬ」という冷厳な事実の前には塵芥に等しい。「百億年すれば全部なくなる」のである。

私は幼稚園児のときに、人のこの恐るべき運命に気がついた。だが、それを素直に周りの大人に話すと厳しく咎められた。それでも強情に繰り返すと、大人たちは私を諭すべく、あの世だの、霊魂だの、神様だのを持ち出してくるのでウンザリしてやめた。本当にウンザリした。そんなことを悩んでいるんじゃないんだよと叫びたくなった。

仮に霊があったとして、その霊がいつか滅ぶのなら論理的には同じことだ。仮にあの世があったとして、あの世もいつか朽ちるのであればやはり同じこと。仮に神がいたとして、それと自分が合一できるとしても、その神もいつかは死ぬのなら結局同じなのだ。私の戦慄はそんな気休めではおさまらないのだ。もっと恐ろしいのは、神としてであれ、霊としてであれ、天国においてであれ、永遠に生きることだ。死んで無に帰すのも怖いが、永遠に存在するのはそれと等しく恐ろしい。存在という牢獄に永遠に内閉されることは、無に帰すことと寸分も異ならないではないか。

私は絶望し悲嘆した。生まれてしまったことを、存在してしまったことを呪って泣いた。周囲の愚鈍な大人たちは、突如、何もかも虚しくなって泣き出す私をみて、さすがに霊や来世や神様でお茶を濁すことを諦め、「そんなことばかり考えていると、まともな人間になれないぞ」と脅した。この作戦変更は効果覿面だった。「なるほど、そんな風にこの世の中はできているんだな」と得心した。私はやっとわかったのである。娑婆では本当のことを語っちゃいけないんだ、と。


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霊や来世や神様を信仰している人にとって、最も恐ろしい指摘が、その霊や来世や神様もいつかは滅ぶということでしょう。その恐怖に向き合った結果として、永遠と無、存在と不存在の両極の狂気を正確に掴んだのであれば、もはや信仰の有無はそれほど違わないようにも思います。そして、この違いがないことを知っていれば、無理に争いを仕掛けることもなくなるのでしょう(仕掛けられることはあるでしょうが)。

宮崎哲弥氏の政治評論がいつもイデオロギー臭から自由であるのは、自分がこの世に生まれたことや、生まれた時代も国も選べないことを全身で知り抜いているからだと思います。どの時代のどの人間も、それぞれのギリギリの状況で命を賭けて生きてきたと知るならば、後世の人間が軽々と前の時代を反省したり、歴史の経験から学んだりすることは、非常に居心地が悪くなるはずです。