犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中島義道著 『私の嫌いな10の言葉』  宮崎哲弥氏の解説より

2009-12-03 00:02:49 | 読書感想文
p.246~

例えば「人は死ぬ限り幸福にはなれない」。ずいぶん身も蓋もないいい様だ(笑)。しかし本当のことである。私も子供の時分からそう思ってきた。例えば「革命してもどうせ死ぬ」ともいう。そう。どんな偉大な革命を成し遂げようが、未曽有の大事業を完遂しようが、不世出の英雄となろうが「どうせ死ぬ」という冷厳な事実の前には塵芥に等しい。「百億年すれば全部なくなる」のである。

私は幼稚園児のときに、人のこの恐るべき運命に気がついた。だが、それを素直に周りの大人に話すと厳しく咎められた。それでも強情に繰り返すと、大人たちは私を諭すべく、あの世だの、霊魂だの、神様だのを持ち出してくるのでウンザリしてやめた。本当にウンザリした。そんなことを悩んでいるんじゃないんだよと叫びたくなった。

仮に霊があったとして、その霊がいつか滅ぶのなら論理的には同じことだ。仮にあの世があったとして、あの世もいつか朽ちるのであればやはり同じこと。仮に神がいたとして、それと自分が合一できるとしても、その神もいつかは死ぬのなら結局同じなのだ。私の戦慄はそんな気休めではおさまらないのだ。もっと恐ろしいのは、神としてであれ、霊としてであれ、天国においてであれ、永遠に生きることだ。死んで無に帰すのも怖いが、永遠に存在するのはそれと等しく恐ろしい。存在という牢獄に永遠に内閉されることは、無に帰すことと寸分も異ならないではないか。

私は絶望し悲嘆した。生まれてしまったことを、存在してしまったことを呪って泣いた。周囲の愚鈍な大人たちは、突如、何もかも虚しくなって泣き出す私をみて、さすがに霊や来世や神様でお茶を濁すことを諦め、「そんなことばかり考えていると、まともな人間になれないぞ」と脅した。この作戦変更は効果覿面だった。「なるほど、そんな風にこの世の中はできているんだな」と得心した。私はやっとわかったのである。娑婆では本当のことを語っちゃいけないんだ、と。


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霊や来世や神様を信仰している人にとって、最も恐ろしい指摘が、その霊や来世や神様もいつかは滅ぶということでしょう。その恐怖に向き合った結果として、永遠と無、存在と不存在の両極の狂気を正確に掴んだのであれば、もはや信仰の有無はそれほど違わないようにも思います。そして、この違いがないことを知っていれば、無理に争いを仕掛けることもなくなるのでしょう(仕掛けられることはあるでしょうが)。

宮崎哲弥氏の政治評論がいつもイデオロギー臭から自由であるのは、自分がこの世に生まれたことや、生まれた時代も国も選べないことを全身で知り抜いているからだと思います。どの時代のどの人間も、それぞれのギリギリの状況で命を賭けて生きてきたと知るならば、後世の人間が軽々と前の時代を反省したり、歴史の経験から学んだりすることは、非常に居心地が悪くなるはずです。