犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

野矢茂樹著 『はじめて考えるときのように』

2009-12-20 22:35:08 | 読書感想文
p.173~

たとえば内科医の常識と外科医の常識は違う。まして医者の常識と哲学者の常識はもっと違う。認知心理学の研究によれば、論理的推論でさえ、それぞれの領域に特徴的な推論の型をもっているんだそうだ。「世間の常識」というやつだって、文化や社会が異なればずいぶん違ったものになるだろう。

そうなると、たんに「常識」とだけ言ってすませるわけにはいかない。常識というのは、つねに、「どういうひとたちにとって」とか「どういう活動に関して」という限定がついたものになっている。そうそう、どうもそこんところがよくわかってないひとってのがいて、やたらわかりにくい取り扱い説明書があったり、窓口でやり方がわからないでマゴマゴしているとバッカじゃないのこいつみたいな顔をされたりとか、なんだか腹たつことがけっこうあって、それはぼくが非常識だからじゃなくて、つまり常識の範囲ってものが違うわけで、いやあ、住みにくい世の中だ。

と、いうわけで。「常識」というひとつのものがあるわけじゃない。むしろ「常識たち」といういくつものものがある。そしてぼくらは、それを場面に応じて、課題や問題に応じて使い分けている。だけど、深刻にむずかしいのは、世の中には常識どおりに話が進む類型的な問題じゃすまないものがいくらでもあるってことだ。


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法律学の常識においては、精神的苦痛は金銭的に算定することが可能です。法律実務家に求められる資質とは、目の前の事件の状況を把握し、過去の膨大な判例のサンプルを精査して、妥当な慰謝料の金額を導き出すことです。ゆえに、法律学の常識においては、より一層の基準の明確化のため、判例によるサンプルの集積が望まれています。また、慰謝料は単に高ければよいというものではなく、相場を超えた部分は贈与とみなされ、贈与税の対象となる点に気をつける必要もあります。

法律実務家が慰謝料の算定を行う場面において、精神的苦痛は本来金銭に換算できないことや、その人その人の苦しみは取り替えが効かないことを語ってしまえば、法律学の常識を理解していないと怒られて終わりでしょう。場合によっては、「バッカじゃないのこいつ」みたいな顔をされて切り捨てられるでしょう。しかしながら、深刻にむずかしいのは、世の中には常識どおりに話が進む類型的な問題では済まないものがあり、精神的苦痛の慰謝料の問題は、この問題の核心であるということです。そうでなければ、「お金など1円も要らないから死者を返してほしい」という願いは起きないはずだからです。