犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

下関駅殺傷事件 死刑判決確定

2008-07-12 22:15:37 | 国家・政治・刑罰
1999年(平成11年)9月29日に発生したJR下関駅通り魔事件の裁判が、9年の時を経て、ようやく確定することとなった。上部康明被告(44)は、下関駅にレンタカーで突っ込み、通行人をはねた後、車から降りて包丁で通行人に襲いかかった。先月の秋葉原通り魔事件と同じである。現に弁護側は、上告審で秋葉原の事件との類似性を指摘し、被告人は責任能力がなく無罪だと主張している。最高裁は、「何一つ落ち度のない駅利用者らを無差別に襲った極めて悪質で残虐な犯行。社会に与えた衝撃も大きく、死刑を是認せざるを得ない」と述べ、上告を棄却した。下関駅の事件では、5人が死亡し10人が重軽傷を負った。秋葉原の事件では、7人が死亡し10人が重軽傷を負った。

近代の人権思想・個人主義は、全体主義的な思考を完全に排したはずであった。すなわち、個人のために社会があるのであって、社会のために個人がいるのではないという単純な事実である。人の命は地球より重い。しかし、どういうわけか、このような事件の原因を探るとなると、その原因は社会全体に求められることになる。現に上部被告も、「将来に絶望し自暴自棄となり、自分を追い詰めたのは社会や両親だと思った」と供述している。確かに、9年前には、現在のように派遣労働のシステムの問題点も顕在化しておらず、ネット社会の病理も表面化していなかった。しかしながら、犯人の心理構造は、秋葉原の事件とそっくりである。そして、事件の真犯人は社会の病理であるとされ、「この国の在り方を根本的に考え直す時期に来ているのではないでしょうか」と語られる点もそっくりである。これでは、また9年後に同じような事件が起きることを認めているようなものである。

因果関係は、すべて結果論であり、時間を逆向きにしている。従って、結び付けようとすれば何でも結びつくし、結び付けようとしなければ何も結びつかない。事件を起こした犯人自身が「社会に恨みがあった」と述べている以上、事件の遠因に社会構造の問題点があると言えば、それは確かに正解である。秋葉原の事件においても、派遣労働のシステムやネット社会がその遠因であると言われれば、これは一般的に広く受け入れられる命題となる。しかしながら、この逆向きの時間軸を元に戻してみると、かなり妙な話になる。社会全体に原因があるならば、全員が犯罪者になっていなければ、筋が通らなくなるからである。現実には、社会に無差別大量殺人の原因が蔓延しているにも関わらず、圧倒的多数の人間はそのような行動に出ていない。社会の病理は、必要条件ではあっても、十分条件ではないからである。この世の中には、秋葉原の加藤容疑者によりもひどい状況に置かれている人が沢山いるが、誰も秋葉原で通り魔事件を起こしていない。これも単純な事実である。

鳩山法務大臣による死刑執行のたびに、多くの団体から抗議声明が出されている。しかしながら、検事による死刑求刑、裁判所による死刑判決に対しては、そのような抗議声明はほとんど出されない。死刑執行は死刑判決に基づくものである以上、時間的にも論理的にも、死刑判決への抗議が先に来るはずである。ところが、どんなに死刑に反対する人も、なぜかこの時点では強い怒りが発生しない。この単純な現実は、人間の心情の深い真実を示している。死刑執行の報に接したときの本能的で反射的な激しい怒りは、なぜか死刑判決の時点では起こらない。それは、死刑執行によって初めて現実に生命が失われるからである。

殺されてほしくない人が現実に殺され、取り返しのつかない現実が生じたことによって、生き残った者は、抽象的な理屈でなく全身で現実に向き合わざるを得なくなる。従って、冷静さを欠いて感情が露わになり、死刑執行に際しての抗議声明が出されることになる。このことは翻って、近代法治国家の理屈が、どう頑張っても人間の心情の深い真実に逆らえないことを示している。抽象的な理屈の上では、無罪の推定が働く以上、有罪判決が確定するまでは、どんな殺人犯であっても本当に人を殺したかどうかはわからないことになっている。従って、真犯人であることを前提とした被害者遺族の意見陳述の導入が消極的に捉えられることになる。しかし、この抽象的な理屈が、全身で現実に向き合わざるを得ない遺族に通用するはずもない。遺族が裁判の確定の時点まで犯人への怒りを延期できないのは、死刑廃止論者が死刑判決の時点まで怒りを前倒しできないのと同じことである。

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