犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

浅羽通明著 『右翼と左翼』

2008-07-05 20:38:29 | 読書感想文
「右翼」も「左翼」も、個々の人間を指すものではなく、あくまでも抽象概念である。かつ、両者は対概念である。従って、この右翼と左翼の対立は、その前提を共有している者の間でしか意味を持たない。すなわち、この世のすべての事象を右翼か左翼かで分類することは無理な話である。例えば、白と黒は「色」という仲間の内でのみ対立しており、甘さと辛さは「味」という仲間のうちでのみ対立している。ここで、白と甘さは対立しておらず、黒と辛さも対立していない。従来の右翼と左翼のパラダイムが、現代社会を分析する概念としてそぐわなくなって来たのも、当然と言えば当然のことである。新左翼、新自由主義経済思想、新保守主義なども、あくまでも同じ前提を共有している仲間内の対立であり、その外に出てしまえば対立はない。

戦後の日本では、右翼は自主憲法制定・再軍備・9条改憲、左翼は反戦平和・非武装・9条護憲という独特な対立軸が作られてきた。これはあくまでも戦後の日本という前提を共有した上での対立であり、時代的にも場所的にも限られた特殊な事態である。従って、「右翼」「左翼」概念にとって本質的ではない。特に左翼はもともと革新派・急進派のことであり、暴力によって革命を目指す立場であって、平和主義との結びつきは薄い。戦後の日本でも安保闘争で火炎瓶を投げたり、内ゲバからあさま山荘事件に至ったり、現在でも大学には「反戦のために闘争しよう」といった立看板やポスターがある。そこには、左翼的思考と平和主義との結びつきが必然ではないことが表れている。

右翼とは、人間の感情や情緒を重視し、人間は自由・平等・人権といった概念だけでは割り切れないものだとする考え方である。これに対し左翼とは、人間は自由かつ平等であり、それは国際的かつ普遍的であるとする考え方である。そして、これを未だ理解していない人に広く啓蒙することによって、正しい世の中を実現することが人類の進歩であると考える。さらに、左翼はその運動の方向性によって、「権力左翼」(プロレタリア独裁を目指す)、「反抗左翼」(現代思想・演劇)、「自由左翼」(リベラル派・人権派)などに分けられている。一般に現在の日本では、社民党や朝日新聞系・岩波書店系のジャーナリスト、文化人が「自由左翼」に属するものと分類されている。また、憲法によって権力を抑制し、人権を守ることを目的とする法曹界にもそのような傾向がみられる。

自由左翼は、自由主義・民主主義・平等主義という絶対的な理念がある以上、その活動にも一定の方向性がある。すなわち、犯罪そのものよりも、犯罪の取締りや刑罰のほうを問題とする。通信傍受法(盗聴法)や共謀罪(組織犯罪処罰法改正)への反対運動がその代表である。これを押し進めれば、売買春の合法化、薬物の脱犯罪化といったところまで貫徹されることになる。そこにあるのは、人類の進歩のための啓蒙である。そして、不正に満ちた現在の世の中を自分達の手で正すという使命感である。厳罰主義が右傾化の象徴であり、保守反動であり、戦前に戻る危険があるとの位置づけがなされるのも、このような構造に原因がある。しかしながら、「人の一生の時間を奪っておきながら懲役5年では短すぎる」となどいう人間の倫理的な直観は、右翼も左翼も含むところの大前提である生命に関するものであり、「厳罰感情」のパラダイムに収まるものではない。すなわち、右翼と左翼の対立の構造の外にある。

朝日新聞のコラム「素粒子」欄が、「永世死刑執行人 鳩山法相。またの名、死に神」との記事を載せ、全国犯罪被害者の会や地下鉄サリン事件被害者の会から抗議を受けた。「素粒子」は、言うまでもなく権力への風刺であり、それゆえに左翼的正義である。そして、刑罰は国家が国民の人権を制約する行為であり、中でも市民の生命を奪うことは国家刑罰権の発動の究極であるという左翼的なモデルからすれば、この風刺には非の打ち所がない。そこでは、市民は風刺を喝采して、権力者である法務大臣を揶揄すべき存在であることが大前提である。これに対して、被害者の会が指摘しているのは、右翼も左翼も含むところの大前提である生命の重さ、死の重さである。犯罪被害者は左翼的正義と衝突することが多いが、権力者などではなく社会的弱者であるという点で、右翼的ではない。人間の生死の大切さは、右翼と左翼の対立の構造の外にある。この人間の生死の問題を、左翼的正義の刑罰論で風刺したことが、今回の「素粒子」の問題点である。

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2 コメント

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一言。 (清高)
2008-07-17 21:37:17
「被害者の会が指摘しているのは、右翼も左翼も含むところの大前提である生命の重さ、死の重さである」→これは疑問ですね。①それなら、被害者の方は死刑に反対しなければいけない?(右翼も左翼も含むところの大前提ならば)②被害者の方については何ら語られていないので、感想以上のものはないから。
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ありがとうございます。 (某Y.ike)
2008-07-19 21:18:35
生と死が矛盾して反転し、自己と他者が矛盾して反転するならば、「殺された自分の死」に矛盾するのは「自分の生」と「犯人の死」であって、「犯人の生」では矛盾が消えてしまい、反転が生じないように思います。ごちゃごちゃ理屈を言うよりも、「なぜ殺された者には将来がないのに殺した者には将来があるのか」と言ったほうがストレートに来ると思いますが。
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