犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

新潮社編 『人生の鍛錬 小林秀雄の言葉』 より

2007-12-08 23:44:29 | 読書感想文
12月8日は真珠湾攻撃の日、すなわち日米開戦の日である。66年も経てばマスコミで大きく取り上げられることもないが、これは極めて自然なことである。我々はこの歴史から、いかなる教訓を得るべきであろうか。「歴史から、将来に腰を据えて逆に現在を見下す様な態度を学ぶものは、歴史の最大の教訓を知らぬ者だ。歴史の最大の教訓は、将来に関する予見を盲信せず、現在だけに精力的な愛着を持った人だけがまさしく歴史を創って来たという事を学ぶ処にあるのだ。その時代の人々が、いかにその時代のたった今を生き抜いたかに対する尊敬の念を忘れては駄目である。この尊敬の念のない処には歴史の形骸があるばかりだ」(p.62~「戦争について」より)。

戦後に生まれた人が戦争責任など負わされるいわれはない、これはごく当然の感情である。確かに昭和16年12月8日は不幸な戦争が始まった忌むべき日であるが、これはその後の結果を知っていることによって初めて可能となる言明である。過去とは「過去の現在」であり、現在とは「現在の現在」であり、未来とは「未来の現在」である。人間は現在以外には生きられない、これが存在の形式である。「何に還れ、彼に還れといわれてみたところで、僕等の還るところは現在しかない。そして現在に於て何に還れといわれてみた処で自分自身に還る他はない。こんなに簡単で而も動かせない事実はないのである」(p.54「文学の伝統性と近代性」より)。

右派の人は述べる、何をどうすれば戦争に勝つことができたはずだ。左派の人は述べる、人類の愚かな行為を反省すべきだ。両者に共通しているのは、もしも真珠湾攻撃がなかったならば、広島と長崎に原爆が落とされることもなく、昭和20年8月15日の終戦もなかったという大前提である。しかしながら、「もしも真珠湾攻撃なかったら」との仮定が成立するためには、真珠湾攻撃が在ったことがどうしても必要となる。すなわち、真珠湾攻撃は在り(現在形)、かつ在った(過去形)。平成の後世から過去を反省しようとし、昭和16年の真珠湾攻撃を検証したところで、それはすべて事後的な辻褄合わせの結果論である。「ただ単に現代に生れたという理由で、誰も彼もが、殆ど意味のない優越感を抱いて、過去を見はるかしております」(p.102「歴史と文学」より)。

過去を反省せよ、歴史の教訓から学べとの言い回しは、ほとんどの場合「戦争に負けることがわかっている真珠湾攻撃」を前提としている。ところが、歴史上確実に現在形かつ過去形で存在しているのは、「戦争に勝つか負けるかわからない真珠湾攻撃」のみである。もっと正確に言うならば、「戦争に勝つに決まっている真珠湾攻撃」しか存在しない。昭和16年12月8日が真珠湾攻撃であり、真珠湾攻撃が昭和16年12月8日ならば、それ以外の時点での真珠湾攻撃はないからである。「この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」(p.117「コメディ・リテレール」より)。

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