犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

加害者を赦せるわけがない

2007-03-10 18:26:39 | 実存・心理・宗教
修復的司法の考え方の高まりによって、被害者が加害者を「赦す」という行為が注目されてきた。しかしながら、本人が心から赦したいと思うのであればともかく、上からの「赦さなければならない」というプレッシャーは、ニーチェの指摘するキリスト教の欺瞞の道徳の強制である。汝の敵を愛せよ、右の頬を叩かれたら左の頬も差し出せ、上着を奪われたら下着も与えよ、という不自然な道徳の流れである。

人間という動物は、些細なトラブルであっても、そう簡単に他人を許せない存在である。5年も10年も続いている民事裁判や行政裁判も多い。これが人間の自然な姿である。まずは、人間という生き物のこのような当たり前の前提に立たなければ、物事を率直に受け止められなくなる。

加害者を赦すべきであるという道徳は、いつまでも恨みを持ち続けていても事態は何も変わらないというプレッシャーを伴う。これは、生産性のある結論を導くという修復的司法の考え方に合致する。しかし、これが細分化した社会科学の視野の狭さである。終局的な解決というゴールからの逆算は、人間の思考を無理に型にはめてしまう。

被害者は、加害者を赦した瞬間から、また新たな問いに直面するはずである。自分は本当に赦してよかったのか。赦したことは間違っていたのではないか。自分は心の底から加害者を赦しているのか。本当は迷っているのではないか。次から次へと疑問が沸きあがってくるはずである。このような疑問を無理やりに停止させ、赦したことは正しい行為であるという結論だけを無神経に押し付けるのが、キリスト教的な道徳の欺瞞である。

しかも、このような真摯な被害者の苦しみは、被告人の刑を軽くする方向で利用されてしまう。被害者は苦しみの中で赦すという結論に到達するや否や、被告人の弁護士はそれを示談書に盛り込み、裁判において「被害者のは処罰感情は低く、厳罰を求めていない」と主張することになる。宗教的な「赦さなければならない」という道徳の中に、被告人の自己弁護の欲望が混じれば、事態は一気に不謹慎なものになる。

宗教のない日本において、被害者が加害者を「赦す」という行為だけが不自然に持ち込まれている。「許す」ではなくて、普段は絶対に使わない「赦す」という難しい漢字を使っているのも作為的なところである。ニーチェの指摘するキリスト教の道徳の欺瞞性を直視する限り、被害者がそう簡単に加害者を赦せるわけがないだろう。

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