国家による刑罰権の独占と、それに伴う被害者の自力救済の禁止は、近代刑法の大原則である。ニーチェ哲学によれば、この近代刑法の原則にもキリスト教の負の部分の影響が残っている。それは、ルサンチマンによって人間の不可避的な本能を無理やりに抑制している点である。
「右の頬を殴られたら自分も殴り返したくなる」、これが自然な人間の本能である。すなわち、人間が生きているということであり、人間存在というものの端的な把握である。どんなに気が弱い人間でも、内心にこのような意志が沸いてくること自体は否定できない。このような動かぬ事実を前提としつつ、とりあえず社会の混乱を収めるルールとして、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出すくらいの気持ちを持っていたほうがよい」という分には、まだ偽善的ではない。これが「左の頬を差し出すのが正しい行動なのだ」という道徳にまで至ってしまうと、それは偽善となる。
このような道徳の文脈では、最初に右の頬を殴った加害者の行為については、完全に不問とされる。そもそもの事の起こりである加害者の殴った行為は、道徳的に非難されない。たとえ「ムシャクシャしていたから」「ただ殴りたかったから」などという理不尽な動機であっても、加害者の行為は全く問題としない。そして、殴り返そうとした被害者の行為についてだけ、道徳的に非難されることになる。ニーチェによれば、これが人間心理の屈折したルサンチマンであり、キリスト教の負の部分である。
このようなキリスト教の自力救済禁止の思想は、啓蒙思想、天賦人権論、自然法思想を通じて、近代刑法にも反映されている。その特徴は、非人間的であるという点と、偽善的な道徳の押し付けになるという点にある。
「右の頬を殴られたら自分も殴り返したくなる」、これが自然な人間の本能である。すなわち、人間が生きているということであり、人間存在というものの端的な把握である。どんなに気が弱い人間でも、内心にこのような意志が沸いてくること自体は否定できない。このような動かぬ事実を前提としつつ、とりあえず社会の混乱を収めるルールとして、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出すくらいの気持ちを持っていたほうがよい」という分には、まだ偽善的ではない。これが「左の頬を差し出すのが正しい行動なのだ」という道徳にまで至ってしまうと、それは偽善となる。
このような道徳の文脈では、最初に右の頬を殴った加害者の行為については、完全に不問とされる。そもそもの事の起こりである加害者の殴った行為は、道徳的に非難されない。たとえ「ムシャクシャしていたから」「ただ殴りたかったから」などという理不尽な動機であっても、加害者の行為は全く問題としない。そして、殴り返そうとした被害者の行為についてだけ、道徳的に非難されることになる。ニーチェによれば、これが人間心理の屈折したルサンチマンであり、キリスト教の負の部分である。
このようなキリスト教の自力救済禁止の思想は、啓蒙思想、天賦人権論、自然法思想を通じて、近代刑法にも反映されている。その特徴は、非人間的であるという点と、偽善的な道徳の押し付けになるという点にある。