犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

義援金 (1)

2011-03-26 23:51:55 | 実存・心理・宗教
 日本赤十字社を通じ、東北関東大震災への義援金の寄付を行ってきました。イチロー選手の2000分の1、安室奈美恵さんの1000分の1の金額です。私がなぜ寄付を行ったのかと言えば、自己満足のためです。ほんの少しだけ、被災地の誰かの役に立つことができたような気がして、私の心が満たされたからです。
 寄付に限らず、利他的な行為は、本質的に矛盾を免れないものと思います。偽善も善の一種ですが、匿名で隠れて寄付をする行為は、寄付をした事実をアピールしつつ寄付をする行為よりも、偽善からは遠いと思います。しかしながら、隠れて寄付をする者は、「あなたは寄付をしていない」という非難に耐えなければならず、この自己欺瞞との闘いに費やす労力は無意味であるとも思います。

 この2週間、諸外国の人々からの「日本への応援メッセージ」を多く耳にしました。最初は、有り難いと思いました。その後、日本人として、理屈抜きの別の感情が瞬間的に湧いてきました。この感情は複雑であり、正確に言葉にすることはできませんが、支援の言葉は有り難いがゆえに重く、逃げられないと感じました。そして、ここは「有り難い」と思わなければならないのだと感じ、仮に内心に起こった感情が「有り難い」以外のものであっても、その気持ちは世間的に抑えなければならないのだと思いました。
 私は被災地の人間ではないため、すべては安全地帯からの理屈です。そして、このようなことが考えられるのも、被災地の人間ではないからです。思えばここ数年、スマトラ島沖地震、四川大地震、ハイチ地震などの大災害に際して、日本もそれらの国々に対して、「応援メッセージ」を発信してきました。そして、その言葉を受け取る側が、憐憫の視線に不快感を覚え、同情など向けられたくないと感じ、国民としてのプライドが傷ついていたとしても、そのような言葉は返って来なかったのだと思います。

 私は、自分が寄付した微々たる義援金が役立ってほしいと思います。それと同時に、義援金を役立ててもらわなければ困るとの欲望や、さらには被災者の方々に喜んでもらわないと困るとの傲慢さもあり、自分の心を誤魔化していると感じます。
 被災地の人々の無数の言葉のうち、被災地以外からの善意の重さ、押し付けと感じる苦しさ、憐憫や同情の視線に対する不快感などは、マスコミの報道においては最も表に出にくいものと思われます。「全てが夢の中の出来事であり、夢から覚めて元通りの日々に戻れるならば応援もお金も何も要らない」というのが人間の普通の考えでしょうが、カメラの前では言いにくいと思います。

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