犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

乗り越える

2011-06-25 00:13:09 | 実存・心理・宗教
 日本は今回の震災を乗り越えられるのかと問われれば、答えは「乗り越えられる」しかないように思われます。そもそも日本が震災を乗り越えたらどうなるのか、乗り越えなかったらどうなるのか、その基準が決まっていないからです。日本といった抽象概念を主語とし、その人の集まりについて乗り越えを論じること自体、そもそも「必ず乗り越えられる」という答えを前提とした問いであるとも思います。震災から3ヶ月以上が経過し、被災地以外では日常生活が戻り、「被災なされた皆様方に重ねて心よりお見舞い申し上げます」といった社交辞令がうるさいと感じられるようになったら、このような問いは不要にもなります。

 他方で、被災者個人に焦点を当てた場合、この乗り越えの議論は疑問形ではなく、「悲しみは必ず乗り越えられる」「人は必ず立ち直ることができる」という断定形で持ち込まれることが多いように思います。これは、ある種の善意の押し付けであり、反論を許さず、聞く者のありがた迷惑を省みないものだと感じます。痛みや苦しみは経験した本人にしかわからないという真実を心得ている限り、本来はかけるべき言葉など存在しないことを知りつつ、何らかの言葉を苦しみながら絞り出すという過程を経るため、単純なプラス思考の励ましにはなり得ないとも思います。これが言外に生じる目線の問題であり、人が「上から目線」を感じる理由です。

 ある方のブログを読み、被災者への乗り越えを求めたくなる心の動きが3つの言葉に集約できることを知りました。ここには、私自身の心の動きも見事に言い当てられています。1つめが「可哀想に」という感情です。これは上から目線そのものです。2つめが「私はあんな目に遭わなくて幸せだ」という感情です。これは、自分の幸せの再確認です。そして3つめが、「人が悲しむところを見るのが辛い」という感情です。これは、自分が不安になりたくない、不快になりたくないという動機から来ています。これらの自己中心的な心情を正面から認めて苦しむならばともかく、他者の幸福に置き換えて何の疑問も感じないところが欺瞞的だということです。

 ここ数年の社会問題といえば、年金、労働、格差社会、介護、少子高齢化といったものが国民的に共有されてきました。そして、年金記録が消えた悲しみに対して「悲しみは必ず乗り越えられる」と励ます人はいませんでしたし、正社員と派遣社員との格差に対して「未来を強く信じれば乗り越えられる」と言う人はいなかったと思います。また、要介護認定への疑問に対して「希望を捨てないで下さい」と元気づけても何の解決にもなりませんし、孤独死の問題に対して「あなたは1人じゃない」と熱く語ってしまっては単なる冗談です。結局、人は未来も希望もないと薄々感づいているときのみ、「未来を信じて」「希望を持って」と抽象論を語るしか方法がないのだと思います。

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2 コメント

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Unknown (文月)
2011-07-01 11:39:11
乗り越えられる人も多くいると思います。が、年月を経ても乗り越えられない多くの人は、悲しみ絶望を他人に語れなくなり、さらに家族にも語れなくなり(家族でさえも支えられないほど深いため)孤立し絶望するのではないでしょうか。カウンセラーによる心のケアは、今ではなくかなり将来に必要になる気がします。
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文月様 (某Y.ike)
2011-07-03 21:54:59
遅くなりました。全くその通りだと思います。
悲しみや絶望に耳を傾けようという機運が社会的に高まるのは、ほんの一瞬のことですね。年月を経ても乗り越えられない悲しみ絶望については、多くの人々から受け入れを拒否されるものと思います。社会が平穏な状況にあるときには、世間の主流は他人の幸福を不幸とし、他人の幸福を不幸とするものでしょうし、自分と他者との関係を「勝ち・負け」「自分よりも上か下か」で測るのが通常でしょう。
それでも年月を経ても乗り越えられない悲しみ絶望を少しでも他人に語れば、暗黙のうちに返ってくる反応は、「扱いに困る」「マイナス思考にも程がある」「だったら私は何をすればいいのか」「前向きに生きている人を見習え」「いつまでも悲劇のヒロインを気取るな」といったものが主流だと思います。カウンセラーによる心のケアが必要となるのは、本当にかなり先の先、世間的には風化して話題にも上らなくなった後のことでしょうね。
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