ニーチェが徹底して批判するのは、「世の中には絶対的に正しいものが存在する」という態度であり、正義や真理を喧伝する姿勢である。そのような態度は、今ここで一度きりの人生の瞬間を生きているという実存的不安から逃避し、ニヒリズムを避けることでしかないからである。キリスト教が没落し、絶対的な神がいなくなった後でも、人権が神の替わりをして絶対的な真理として君臨するのでは同じことである。
絶対的な正義、絶対的な真理を前提としてしまうと、この世のすべての事象はそれとの関連でしか捉えられなくなる。すなわち、直接的、自然的な理解がねじ曲げられる。ここからイデオロギー論争が発生する。もともと絶対的に妥協できない性質のものを無理に妥協しようとしても、お互いに妥協などできるわけがない。それは、宗教紛争、神学論争、正義の聖戦の様相を帯びる。
絶対的な正義、絶対的な真理として近代刑法の原則を掲げてしまうと、警察権力による捜査の不当性は大問題とされても、事件そのものの悲惨さは抜け落ちる。強大な国家権力の前では1人の市民は弱く、まさに国家からに人権を侵害されようとしているのは被告人であり、被害者ではないからである。一般的な世論が、加害者が自分の罪を棚に上げているのはおかしいという疑問を呈しても、そもそも棚に上げている、上げていないという段階の認識でずれてしまう。裁判の法廷は、被告人が自分の犯した罪と向き合う場ではなく、自らの人身の自由を防御する場であるとされる。しかも、そのような防御権は、歴史的に確立された立派な人権であり、被告人は新たな歴史の担い手として位置づけられる。
ニーチェ哲学からすれば、これはすべて弱者のルサンチマンである。しかも、強者性を隠して弱者性をアピールするという高度に欺瞞的な逆方向のルサンチマンである。自らの犯した犯罪から逃避することは、自分自身のこれまでの人生から逃避することである。一度きりの人生の瞬間、瞬間の積み重ねによって、今ここで自分は自分の人生を生きているという実存的不安からの逃避である。残酷な凶悪犯人の弁護士が、傍聴席で涙をこらえる被害者を横目にして、崇高な世界人権宣言の条文を朗々と読み上げるという法廷の光景は、どこまでも人間自身の存在を軽くする。
絶対的な正義、絶対的な真理を前提としてしまうと、この世のすべての事象はそれとの関連でしか捉えられなくなる。すなわち、直接的、自然的な理解がねじ曲げられる。ここからイデオロギー論争が発生する。もともと絶対的に妥協できない性質のものを無理に妥協しようとしても、お互いに妥協などできるわけがない。それは、宗教紛争、神学論争、正義の聖戦の様相を帯びる。
絶対的な正義、絶対的な真理として近代刑法の原則を掲げてしまうと、警察権力による捜査の不当性は大問題とされても、事件そのものの悲惨さは抜け落ちる。強大な国家権力の前では1人の市民は弱く、まさに国家からに人権を侵害されようとしているのは被告人であり、被害者ではないからである。一般的な世論が、加害者が自分の罪を棚に上げているのはおかしいという疑問を呈しても、そもそも棚に上げている、上げていないという段階の認識でずれてしまう。裁判の法廷は、被告人が自分の犯した罪と向き合う場ではなく、自らの人身の自由を防御する場であるとされる。しかも、そのような防御権は、歴史的に確立された立派な人権であり、被告人は新たな歴史の担い手として位置づけられる。
ニーチェ哲学からすれば、これはすべて弱者のルサンチマンである。しかも、強者性を隠して弱者性をアピールするという高度に欺瞞的な逆方向のルサンチマンである。自らの犯した犯罪から逃避することは、自分自身のこれまでの人生から逃避することである。一度きりの人生の瞬間、瞬間の積み重ねによって、今ここで自分は自分の人生を生きているという実存的不安からの逃避である。残酷な凶悪犯人の弁護士が、傍聴席で涙をこらえる被害者を横目にして、崇高な世界人権宣言の条文を朗々と読み上げるという法廷の光景は、どこまでも人間自身の存在を軽くする。