犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある交通事故裁判の打ち合わせの光景

2010-05-19 23:20:56 | 実存・心理・宗教
 彼は、自分が人間としての表情を失いつつ、それ以外に顔の筋肉の動かしようがない状態の中で、決められた場所に向かってただ歩いていた。顔どころか全身の筋肉が動かず、特に動かしたくもない。国選弁護人からの電話を受け、生まれて初めて法律事務所を訪れること対しては、僭越にも緊張感を覚えている。少なくとも、絶望からの救いを求めているのでないことは確かである。
 「取り返しがつかない」という言葉は、何度繰り返してもその通りである。それ以外に彼が適切な言葉を見つけたわけではない。しかしながら、言葉から滲み出るところの「言いたいことであるところの何か」には遠く及ばず、むしろその何かに迫ることを妨げる効果しかないのであれば、沈黙する以外に人間が採り得る行動もない。次善の策としてなしうるのは、自ら言葉を語るのではなく、「言わずにはいられない」という何かに突き動かされて、その何かに迫る言葉を語らされていることのみである。
 車社会では、誰しもが被害者になり得るのと同様に加害者になり得る。そして、自分は飲酒運転でもなく、誰もが犯しうる一瞬の不注意によって、運動神経の衰えた高齢者をはねてしまった。現代社会では最も多い事故の形態である。しかし、自分が奪った人の命が戻ることがないにもかかわらず、現にこうして自分が生きていることの不快感に対しては、そのような慰めの言葉からは何も伝わってくるものがない。人の命を奪いながらも生きている事実を厳しく責められるほうが、自己弁護の屁理屈を正当化してもらうよりも、その不快感は和らぐ気がする。

 弁護士は、自動車運転過失致死罪の起訴状を広げ、「どこか間違っているところはありませんか?」と彼に聞いた。続けて、「たまに、間違いを犯してすみません、なんて謝る人がいるんですけど、話が逆なんですよ。検察官の起訴状が間違っているのか、あなたの方が間違いを指摘するんです」と言って愛想笑いをすると、彼も釣られて表情を緩めた。彼は、自分が人間としての表情を取り戻したことに気がつき、救われたと思い、その状態に安住したいと願う自分を小市民的だと思った。
 弁護士はその後、できる限り「はねた」「轢いた」という言葉を使わず、「接触した」「衝突した」という表現を使うように指導した。彼は、何かが違うと思いながらも、両者の会話は一方的に進んだ。彼が被害者の死を知らされてから今日まで、四苦八苦して考え続けてきた言葉は、どうにも弁護士に伝わっているようには思えない。弁護士からは、「そんなに心配しなくていいですよ」「大丈夫ですよ」との答えが返ってくるのみである。
 自分の全身は、たとえ過失であったとしても、人の命を奪ったことがあるという負のオーラに包まれていたはずである。そして、人を死なせた経験のない弁護士の全身を圧倒していなければならないはずである。それが、どういうわけか、事態はそのようになっていない。彼が勾留されずに釈放されていること、交通違反の前歴がないこと、保険会社を通じて示談が済んでいることなど、弁護士が彼に有利な事情を丁寧に説明すればするほど、彼は負のオーラから自由になり、人間らしさを取り戻してくるのがわかる。そして、その心の奥底で、命の重さから逃れようとしている自分の弱さと甘えが、彼の居心地を悪くさせているのもわかる。

 弁護士は、法廷に来てもらう情状証人として、彼の会社の上司と、彼の父親に依頼するよう指示した。そして、会社の上司からは「真面目に仕事をしています」との証言を、父親からは「二度と事故を起こさないように監督します」との証言を得るべく、質問事項と模範解答のシナリオを述べ始めた。彼は、人の命を奪ったからには誰が何を言っても言い訳であり、それを言い訳であると知っているならば人はそれを言わないはずであり、そのような言葉には語る価値がないと思った。しかし、刑事裁判の場ではそのような言葉に価値があり、自分はその価値に甘えられる立場にあるのだと知った。
 さらに弁護士は、寛大な刑を求める旨の嘆願書を、会社の同僚や友人からできる限り多く集めてくるよう彼に指示した。彼は、寄ってたかって被害者の命を冒涜しているような自責の念を感じながらも、そのようなことをすれば裁判官に悪感情を持たれるのではないかという保身の気持ちもあり、内心は激しくせめぎ合っていた。しかし、弁護士は彼のいずれの気持ちにも気付いていないようであり、「しっかり反省して謝罪すれば実刑はないですよ。安心して私に任せて下さい」と繰り返すのみである。
 被告人質問の打ち合わせの段になり、弁護士からは、「真面目に仕事をすることが被害者への供養になると思います」との模範解答を示された。彼は、完全に違うと思ったが、何がどう違うのか上手く表現しようがなかった。人の死に対して、反省や謝罪などという言葉を述べてしまっては、その反省や謝罪をされるべきところの何かが逃げてしまい、その何かが人に伝わったり、人に感じられたりすることはない。しかしながら、刑事裁判の法廷で反省や謝罪をしなければ、現実には「反省が不十分で実刑」という話になってしまう。

 弁護士は、さらに被害者遺族に謝罪の手紙を出し、それを裁判所に有利な情状として主張することを提案した。彼は、遺族の方々に許してもらえるとも、許してもらいたいとも思っておらず、手紙など書きようがないと答えた。すると、弁護士は反省文の例を彼の前に提示した。そこには、名前を変えれば誰が書いても同じになるような、薄っぺらな言葉が並んでいた。「事故のことを常に忘れずに生きていきます」など、一見して嘘である。人は、自ら好んで社会生活に支障を来たす生き方を選択することはできない。
 「被害者が若い人でなかったのは不幸中の幸いでしたね」と弁護士が笑いかけたため、彼は思わず、「私はそれだけ長く生きてきた方の人生を奪ってしまったんですよね。戦争をくぐり抜け、高度成長を支えた方の人生を、一瞬で終わらせてしまったんですよね」と答えた。弁護士は相変わらず、「そんな風に考える必要はないですよ」とにこやかに笑い、量刑の相場、執行猶予期間の相場を丁寧に説明し始めた。彼は弁護士が自分のために時間を割いてくれていることが徐々に申し訳なくなり、黙ってその話を聞くことにした。
 たとえ人の命を奪ったとしても、故意の殺人でなければ、命をもって償う必要などない。これが現在の法律であり、社会常識であるが、人の命がそこまで軽くていいものか、彼にはどうにも腑に落ちないところがある。しかしながら、彼自身に命をもって償う勇気がないならば、そのようなことを言う資格もない。また、一般的な社会生活を放棄して、一生を死者を弔うために捧げる決意もできないならば、いずれにしても偽善である。彼はが人間としての表情を取り戻し、笑顔を見せると、弁護士も満足そうに笑った。

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フィクションです。

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