犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

広島小1女児殺害事件の審理差し戻し

2008-12-11 23:27:39 | 実存・心理・宗教
広島市で平成17年、下校中の木下あいりさん(当時7)が殺害された事件で、殺人や強制わいせつ致死などの罪に問われたホセ・マヌエル・トレス・ヤギ被告(36)の控訴審判決が9日、広島高裁であった。楢崎康英裁判長は「一審は犯行場所の事実誤認がある」「重要な事実を判断するための審理が不十分」と判断し、審理を広島地裁に差し戻した。

● 父親の木下建一さん(41)のコメント
「死刑でも無期懲役でも受け入れる覚悟だった。どちらか言い渡してくれると信じていたが、差し戻しとは……。非常に残念です。苦しみがさらに長引くのかと、つらい思いになりました。(裁判員制度のモデルケースとして第一審が迅速化を目指していた点について)遺族の心の負担を考えれば、非常に良かったと思っていた。ただ、今回のように複雑な事件では、争うべき点が審理で漏れることもあるのだとつくづくわかりました」。

● 渡辺修・甲南大法科大学院教授のコメント
「一審は、審理の充実をはかるためにある公判前整理手続きを急ぎすぎた。捜査段階の被告の供述を証拠から切り捨てたのは疑問で、取り調べ状況を解明し、証拠にふさわしいかどうか検討すべきだった。控訴審が審理不尽と批判したのは当然だ。今後、市民の代表となる裁判員も証拠が不十分だと分かれば、本来死刑以外にないと思っても死刑を選択することが不可能になってしまう」。


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裁判員制度のモデルケースとして実施された本件裁判の顛末は、制度そのものが抱える問題を浮き彫りにし、司法関係者の間には波紋が広がった。しかしながら、被害者遺族の負担を差し置いて裁判員の負担を大上段に論じるのは、イデオロギー的思考の悪しき側面である。わずか7歳で理不尽に奪われた被害者の人生は、裁判員制度の導入とは本来何の関係もない。たまたま時期が一致したという偶然のせいで、このようなゴタゴタに巻き込まれるのは、端的に傍迷惑な話である。父親の建一さんは、「結論が出なくて残念だったね」と心の中で語りかけ、法廷であいりさんの遺影を抱き直したとのことであるが、例によって法学者はこの点については何のコメントもしない。そして、裁判員制度に賛成する者はその立場から、反対する者はその立場から、イデオロギー的に持論を展開することになる。

高裁が問題視した最大の点は、一審の地裁が犯行場所を特定できなかったことである。すなわち、殺害場所は「被告人方または屋外」とされ、この点に訴訟指揮や検察側の立証活動の不備が存することが審理不尽であるとされた。ここで、「殺害場所が屋内であろうと屋外であろうと死者は帰ってこない」との心情を述べるならば、専門家からは例によって、被害感情が論理を混乱させるとの反論を浴びることになる。しかしながら、「7歳で殺されたこの子の人生は何だったのか」「生まれてきた意味は何だったのか」「私は何のためにこの子を産み、何のためにこの子を7歳まで一生懸命に育ててきたのか」という問いには答えが出ないのに対し、「殺害場所は屋内か屋外か」という問いは、被告人が素直に真実を語るならば、すぐに答えが出る。これが形而上の問いと形而下の問いの差である。犯罪被害者遺族の言葉が実証科学によって矮小化されるのは、誰から誰に問うわけでもなく、存在が存在に問うているような問いの恐怖への裏返しでもある。

近代刑法においては被告人に黙秘権と自己負罪拒否特権が保障されており、ヤギ被告には「犯行場所は屋内か屋外か」という問いに答える義務はない。しかしながら、今回の大騒ぎが、すべてヤギ被告がこの問いに答えないことによって生じていることもまた、疑いのない事実である。仮にこのような事件に裁判員が携わった場合、裁判員が犯行場所についてあれこれと悩み抜くのは大変な負担である。ここで、被告人がすべて反省して真実の犯行場所を語り始めたならば、裁判員の負担は一気に軽減されることになる。これも端的な事実であって、あまりに当たり前の因果関係である。過去の歴史の苦い経験を並べて理論武装する必要もない。今回の結論が何とも言えず後味が悪いのは、すべての議論がヤギ被告1人の自己弁護の供述に振り回されているからである。そして、黙秘権の有無とは別問題として、犯行場所が答えられないのは臆病で勇気がないからだとの論理を否定することができないからである。

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