犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

【短編小説】 夫が痴漢で現行犯逮捕。そのとき妻は…

2008-12-13 21:16:09 | その他
 ―1―

 夫が朝のラッシュの電車内で、痴漢(迷惑防止条例違反)の容疑で現行犯逮捕された。
 うちの夫に限って、そんなことは絶対にあるはずがない。夫は、痴漢などという恥ずかしい犯罪とは最も遠いところにいる人間である。
 そう信じたくても、現に警察官は、女子高生が夫の手首をつかんで駅員に突き出したと言っている。そして、夫は警察官に対して罪を認めているとのことである。
 これは悪い夢ではないか。受話器を持つ妻の手は震え出し、足も震え出し、全身の血の気が一気に引いた。
 警察署からの電話連絡は、非常に事務的で素っ気ない。「送検」、「勾留」、「接見」、「留置場」など、耳慣れない言葉の連発である。
 愛する夫は、突然「身柄」と呼ばれる立場になってしまった。手錠をはめられ、鉄格子のある4畳ほどの雑居房に入れられ、数日間は警察署で面会することもできないそうだ。
 夫は携帯電話も押収されて、電源を切られてしまった。
 何もかも初めてのことで、妻は目の前の現実に気持ちがついて行かない。


 ―2―

 痴漢で現行犯逮捕されたということは、他の犯罪と比べても非常に人聞きが悪い。
 このようなことが近所に知られれば、噂に尾ひれがついて、普通の生活がしにくくなる。
 もちろんこのような事実は親戚に知られてはならないが、何よりも隠しておかなければならないのは会社に対してである。
 社内での昇進が遠のくどころか、会社の体面を汚したとしてリストラされる恐れすらある。それどころか、懲戒免職で退職金も出ないかも知れない。
 このような緊急事態において頼りになるのは、やはり弁護士である。迷惑防止条例違反は被疑者国選弁護の対象ではないが、当番弁護士による援助を受けることができる。
 そして、真実は弁護士からの電話によって明らかにされた。
 夫は、一刻でも早く身柄を釈放してもらうために、警察官の取り調べに対しては罪を認めてしまったのだ。恐らく、刑事から「スケベオヤジ」だとか「変態」だとか怒鳴られて、耐えられなくなってしまったのだろう。
 しかし、夫は弁護士に対しては本当のことを話していたのだった。自分は断じて痴漢などしていない。満員電車の中で、痴漢と間違えられてしまっただけである。
 全くの濡れ衣であった。
 弁護士からの電話を聞きながら、妻は一瞬でも夫を疑ってしまった自分自身が許せず、頬を伝う涙が止まらなかった。


 ―3―

 弁護士の話によれば、夫は携帯電話を押収される直前、会社に電話をして「風邪で1日だけ休む」と伝えたそうである。
 数日間も休めば、さすがに不審がられるだろう。とにかく、風邪でごまかし続けることはできない。
 そうは言っても、最初の警察官の話によれば、夫の身柄拘束は最低でも数日間は続く見込みだとのことである。夫は1日でも早く釈放してもらうために無実の罪をかぶったのに、これでは何の意味もないではないか。
 弁護士も電話口の向こうで悔しそうな声を出していた。そして、何としても無罪を勝ち取りたいというのであれば、徹底的に裁判を戦い抜くことを約束してくれた。
 しかし、妻が裁判の費用と時間の点について聞くと、弁護士からは気が遠くなるような答えが返ってきた。
 「ご存知の通り、裁判は2年から3年かかります。お金のほうは、私たちが拘置所に接見に行ったり、裁判所へ出頭したり、有利な目撃証人を探して街頭でビラを配ったりしますので、1000万円くらい必要になると思います。それでも有罪になる可能性は高いです。何年か前、『それでもボクはやってない』っていう映画があったでしょう。痴漢は、やってないことの立証がとても難しいんです」。
 妻は、弁護士の話の途中から強烈なめまいに襲われていたが、それを悟られては恥だと思い、何事もなかったように平然と答えた。
 「そうですね。それはやめておきます。罪は認めてもいいですから、とにかく最善の方法でお願いします」。


 ―4―

 妻の言葉を受けて、弁護士は、大急ぎで被害者との示談交渉を進める方針に転換してくれた。
 現実問題としては、示談で解決するのが最も賢い方法であり、人間の誇りと引き換えに罪を認めればすぐに釈放される。妻もこの程度のことは、弁護士に言われるまでもなく知っていた。
 示談金の額は、事実上裁判所における略式命令(罰金刑)の額が基準となっている。そして、服の上から胸を触った場合、スカートの上から手を触れた場合、スカートの中に手を入れた場合などで差がつけられている。
 弁護士によれば、今回の被害者の女子高生は下着の中まで手を入れられたと証言しているため、120万円が相場であるとのことであった。
 まったく運の悪いことである。真犯人は恐らく、痴漢の常習犯だったのだろう。そして夫は、運悪くその犯人の横か後ろに立っていたのだろう。
 その女子高生に対しても、同じ女性として、なぜ女性専用車に乗ってくれなかったのかという複雑な気持ちもある。
 しかし、やはり現実問題としては、とりあえず今できる最善のことをするしかない。
 妻のやり切れない気持ちは、弁護士の次の言葉によって救われた。
 「お金で片をつけることは恥ずかしいことでも何でもありません。痴漢をしたことを会社に隠すのではなくて、痴漢と間違えられたことを会社に隠すのですから。ご主人が警察に罪を認めてしまったのも、本当は痴漢など絶対にしていないことは、奥さんだけはわかってくれると信じたからだと思います」。
 妻は、再び熱い涙が止まらなくなった。
 妻と弁護士との見事な連携プレーによって、その日のうちに示談が成立し、夫は夕方には無事に釈放された。


 ―5―

 玄関のドアの鍵を回す音がした。妻は急いで飛んでゆき、一つ深呼吸をして、夫を笑顔で出迎えた。「お帰りなさい。お疲れさま。本当に早く帰れてよかったわね」
「ああ。今日は仕事が少なくて、残業がなかったからな」
 夫は、いたずらをして怒られた子供のような顔で冗談を言った。妻も釣られて笑ってしまった。「もう、冗談はいいから。会社を急に休んで変だと思われなかった?」
 ところが、夫は急に真面目な顔をして言った。「会社を休んだ? 俺は普通に会社に行ってたぞ」
 妻は、何かが変だと思いながら、確かめるように聞いた。「ふざけないで。弁護士さんは何て言ってたのよ?」
「弁護士? いったい何の話だよ」
 妻は、体のどこからか大量の冷や汗が出てくるのがわかった。それを必死に食い止めるように、さらに問いただした。
「真面目に答えてよ。私はあなたのために120万円も振り込んだのよ!」
「おい……」
 夫は不思議そうに妻の顔を見た。次の瞬間、その顔がサッと青ざめた。
「……………!!」
「……………!!」


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