犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

入不二基義著 『ウィトゲンシュタイン ― 「私」は消去できるか』

2010-07-03 00:04:25 | 読書感想文
p.43~

 <私=私の世界=世界=生>という等式が成立するような「私」とは、もちろん世界の内の一人物ではないけれでも、世界の外から世界を眺めたり、コントロールしたりできる超越的な神さまのような存在者でもない。「私」は、世界の内にいるのでもなく外にいるのでもなくて、世界とそして生とぴったりと1つに重なっている。つまり、「私」とは、世界が「この世界(ただ1つしかない世界)」というあり方で存在し、生が1回しかないという仕方で生きられることそのものなのであって、それと別の独立した何ものかではない。


p.75~
 
 直接経験は、対象化されたフィルムの1コマではなく、現に見えているスクリーンの映像に相当する。つまり、直接経験は、私の経験・あなたの経験・彼の経験のうちの1つとしての「私の経験」ではなく、2人称・3人称の対比しえない「私の経験」である。あるいは、直接経験は、過去の経験・現在の経験・未来の経験のうちの1つとしての「現在の経験」ではなく、「絶対的な現在の経験」である。つまり、直接経験とは、<それがすべてでありそれしかないような>経験のことであり、その意味で、すぐれて「独我論的な経験」なのである。


p.99~

 ふつうはこう考える。まず「定義」があり、それに従って「判断」が下される。まず「測定方法」が定まり、それによって「測定結果」が導かれる。すなわち、「規則(定義、測定方法)」が定まることが先であり、「規則適用(判断、測定結果)」は、その後でこそ成立しうるものである。これが当たり前の「論理」のように思える。しかしウィトゲンシュタインは、両者の関係に対して逆転した見方を導入する。つまり、「規則適用(判断、測定結果)」が一致して恒常性があるからこそ、「規則(定義、測定方法)」が成り立つのだという<見方の変更>である。


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 客観的な世界の内側に生きる者は、他者の経験を自己の教訓として学び、一般論から個別論を導きつつ、世間的な幸福を追求するのだと思います。逆に、客観的な世界の外側に生きる者は、自己の経験を他者への教訓として語り、個別論を一般化しつつ、やはり世間的な幸福を追求するのだと思います。

 これらに対して、世界の内にも外にも生きていない者は、自己と他者との断絶を悟り、世間的な幸福の無意味さを悟るのだと思います。ウィトゲンシュタインの独我論は、具体的な社会のシステム構築には何の役にも立ちませんし、崩壊させる力もないでしょう。しかし、人間の数だけ独我論が成立するならば、世間的な幸・不幸の問題は確かに解消されるはずです。

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