犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

高橋克徳ほか著 『不機嫌な職場』

2008-08-01 23:19:43 | 読書感想文
ビジネス本が目白押しで玉石混交の状態であるが、中には面白いものがある。生産技術や品質管理の本はつまらない。これに対して、「絶対に負けない交渉術」といった類の本は面白い。特に、相対立する会社の社員が、相互に同じ「絶対に負けない交渉術」の本を携えて交渉に臨んだ場合のことを想像すると面白い。さらに、「不機嫌な職場を改善する」といった類の本は最も面白い。売れ筋の本になると、同じ会社の別の社員が、同時に同じ本を読んでいる可能性もある。上司は「あのバカな部下のことが書いてある」と溜飲を下げ、部下は「あのバカな上司のことが書いてある」と溜飲を下げる。こうして、ビジネス本はますます売れてゆく。

近年の日本の不機嫌な職場を生み出した原因の1つは成果主義である。万事上手く行くはずの新制度がなぜか失敗したときのショックは大きいものがある。仮説もシミュレーションも万全であったのに、なぜか上手く行かなかった。これは、あとから振り返ってみれば当たり前のことである。成果主義を導入する際、それに賛成した人は、自らに有利な効果がもたらされると信じていた。すなわち、自分は他者よりも有能であり、成果主義となれば自分は他者を差し置いて出世できると考えていた。格差社会となっても、自分は上位に位置するのだから望ましいということである。ところが、この希望的観測を全員が実現することは、理屈から言って無理である。実際には、成果主義によって不利になる者が出現することは当然の話であった。かくして、誰も自らに不利になる改革は望まないという当然の事実に気がつくことになった。

いかなる制度も、メリットとデメリットの双方を秘めている。年功序列は、「なぜ自分は能力があるのに出世できないのか」と考えれば苦しくなるが、それを考えなければ非常に楽であった。これに対して、成果主義においては、自分以外は全員敵となる。そうなれば、足の引っ張り合いによるセクショナリズムが起きてくるのも必然である。社員はお互いに協力などせず、不信感と無力感を抱くようになり、対立と批判によって精神を病み、会社全体の業績を下げるという負の連鎖である。成果主義によって社員の切磋琢磨が起こり、会社の業績も上がるという予定調和は、あくまでも視点を全体に置くものであった。これは社員一人ひとりの人生を見落とした。人生の一回性という逃れられない存在の形式は、「能力のない者は自然淘汰される」という理屈に全身で抵抗せざるを得ない。格差が生じることは、紙の上で考える限りは理想的であったが、実際には単なる恐怖となってしまった。「切磋琢磨」と「足の引っ張り合い」は、同一の行為の別の側面である。

資本主義は人間の欲望を際限なく肥大させ、近年はグローバリズムのもとで経済原則を優先してきた。そして、成果主義やリストラを断行し、正社員を減らして派遣労働者を増やしてきた。いわゆる市場経済万能論である。しかし、どんなに視点を高く取ったところで、社員が一度きりの人生を生きているという単純な事実が隠せるはずもない。社員が何よりも心配しているのは、自分の人生の将来の不安であって、間違っても会社の将来の不安ではない。会社の将来は、あくまでも自分の将来の保障になる限度において考慮されるものである。また、社員は自分の給料が上がるのか下がるのか、出世するのかしないのかという個人的な問題を会社全体の問題に優先させ、そこから自らの行動を逆算する。誰もが社員である以前に人間である以上、これも改めようとするほうが難しい。

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