犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「1・生きがいということば」より

2009-04-12 21:33:31 | 読書感想文
p.10~

生きがいということばは、日本語だけにあるらしい。こういうことばがあるということは日本人の心の生活のなかで、生きる目的や意味や価値が問題にされて来たことを示すものであろう。たとえそれがあまり深い反省や思索をこめて用いられて来たのではないにせよ、日本人がただ漫然と生の流れに流されて来たのではないことがうかがえる。

辞書によると生きがいとは「世に生きているだけの効力、生きているしあわせ、利益、効験」などとある。これを英、独、仏などの外国語に訳そうとすると、「生きるに価する」とか、「生きる価値または意味のある」などとするほかはないらしい。こうした論理的、哲学的概念にくらべると、生きがいということばはいかにも日本語らしいあいまいさと、それゆえの余韻とふくらみがある。それは日本人の心理の非合理性、直観性をよくあらわしているとともに、人間の感じる生きがいというものの、ひとくちにはいい切れない複雑なニュアンスを、かえってよく表現しているのかも知れない。


***************************************************

このようなテーマの話は、多くの場合、比較文化論に流れがちである。そして、一方では「非論理的で情緒的な日本語は国際社会では通用しない」との主張がなされ、他方では「母国語と文化に対する誇りを持つべきだ」との主張がなされる。人は簡単な話を難しくすることを好むものであるが、このような議論は非常につまらない。人は生まれる国を選べない以上、とりあえずは生まれた国で生きているしかなく、その国の言葉を話しているしかない、この共通の前提のところは寸分も疑われていないからである。幸運にも「生きがい」という言葉が存在する国に生まれた日本人は、その概念によって、語り得ないものを少しでも追い詰めることができる。そしてそれは、日本語を超えて、人類普遍の共通概念に迫ることができる。このように考えたほうが、議論としてはよほど面白い。また、このように考えなければ、神谷氏の言葉は読めない。

人はなぜ生きるのか。なぜ生きなければならないのか。なぜ死んではいけないのか。これらの古典的な哲学の問いに答えようとすれば、同語反復によって答えるしかない。すなわち、絶対唯一の正解が出ないのであれば、不正解のほうを切り捨てて行くしかなく、そうして残ったものが同語反復的な答えであるということである。例えば、「人は生きがいがあるから生きられる」「人は生きがいを求めているから死なないでいられる」といった答えは、正解であるとの確証はないものの、不正解であると切り捨てられることもない。もっとも、この同語反復的な答えは、「生きがい=夢の実現」といった浅い読み方をすれば、途端に不正解になる。このような捉え方は、夢が破れれば生きていられなくなるのみならず、夢が実現したときでさえ、目標=生きがいの喪失に直面することになる。神谷氏が捉えているのは、恐らく、最初に「生きがい」という言葉を発明した誰だかわからない大昔の日本人の、その発明せざるを得なかった瞬間の苦しみである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。