犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中野孝次著 『すらすら読める方丈記』より

2009-11-27 23:51:56 | 読書感想文
p.14~

『方丈記』は昔から冒頭の名文句によって愛されて来た。事実この文章は、口中にころばして味わっていると、まことによく練り上げられた、むだのない完璧な文章であって、これだけで鴨長明の言いたいことはぴたりとこちらの胸に伝わってくる。存在するいかなるものも一つの同じ状態でいることはなく、自然も人事も万物も必ず変化し流転してゆく。無常、すなわち常なるものなしというのが、その宿命なのである。そのことを長明が心の底から真実と信じ、こちらに伝えようとしていることがわかる。

この言葉が昔も今も読む者をうつのは、それが仏典から引いただけのような空疎な観念ではなく、長明が長い時間をかけてみずから見つめ、実感して得たイメージだからである。そして彼が『方丈記』という全体の構想を得、それをどう始めるかと案じ悩んでいたとき、ちょうど音楽家の頭の中にある日とつぜんシンフォニー全体を貫く主要旋律が鳴りひびくように、この言葉が浮かんだのだ、と私は想像する。詩人が最初の一行に達するのも、そういう過程で得るものだからだ。

―― ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
この一句を得たとき、長明は『方丈記』は成ったと確信したことだろう。長明は長い長いあいだに自分の目で賀茂川の流れを見つめてきて、この一句を得たのだ。水の流れにじっと見入っている人の横顔は、あまり仕合わせそうには見えない。むしろ孤独で、物事がうまくいかないで鬱屈している人という感じがする。人生を深く見つめようとする心は、しかしそういう状態からしか生れないものだ。物事が万事うまくいって、自信たっぷりで満足していては、人生の省察は生れない。


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「すらすら読める方丈記」を読んで、方丈記をわかった気になるのは邪道である。その通りだと思います。そして、方丈記を専門に研究している学者の方々には怒られるでしょうが、そんなもので構わないと思います。「原典を読むか解説書を読むか」の違いは、「解説書を読むか2ちゃんねるで罵倒合戦をするか」の違いに比べれば、微々たるものでしょう。

鴨長明が『方丈記』をどう始めるかと案じ悩んでいたとき、ちょうど音楽家の頭の中にある日とつぜんシンフォニー全体を貫く主要旋律が鳴りひびくように、冒頭の言葉が浮かんだはずである。そんなことは本人に聞いてみなければわかりません。ですので、これもそんなもので構わないと思います。彼は本当は何を言いたかったのか、この段落のこの言葉はどう解釈すべきなのかといった角度の問いは、800年のゆく河の流れの前には、無意味な問いだと思います。

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