犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

自力救済禁止という非理性

2007-03-12 20:36:37 | 実存・心理・宗教
啓蒙思想が前提とする「合理的で理性的な人間像」においては、人間は自力救済に及んではならないとされている。近代とは、理性的な人間が社会契約を結び、国家権力に刑罰権を預ける時代である。このような近代刑法のシステムの中で、被害者が個人的な報復に走ることは前近代的で野蛮であり、中世に戻ることに他ならないとされる。個人の復讐感情を抑えて、感情ではなく理性によって行動するのが、「合理的で理性的な人間像」という近代のモデルである。

このような啓蒙思想は、キリスト教を乗り越え、人間の理性を世界の中心に置くものである。しかし、ニーチェによれば、そこにはキリスト教の偽善的な道徳が形を変えて生き残っていることに他ならない。すなわち、「右の頬を殴られたら左の頬も差し出せ」という人間の屈折したルサンチマンが、「合理的で理性的な人間像」の中にも混入しているということである。

近代刑法のルール下においては、被害者が個人的に仇討ちをすることは、理性ではなく感情に任せた前近代的な行為であり、合理的な人間のすることではない。かような文脈において、完全に見落とされているものがある。それは、そもそもの最初の加害者の行為が合理的でなく、感情と欲望にまみれたものであり、人間の理性とは対極にあるという単純な事実である。これは、キリスト教の道徳が、もともと最初に右の頬を殴った加害者に対する批判を見落とすことと同じ構造である。すなわち、右の頬を殴るという加害者の非理性的な行為は不問とし、殴り返そうとする被害者の行動だけを非理性的なものとして批判するということである。

理性的でない加害者に対して被害者が報復をすべきであると考えることは、至極理性的なことである。しかし、近代刑法の文脈においては、被害者の報復の意志や世論の高まりを刑罰に反映させることは、「心情刑法」と揶揄され、陥ってはならない見本とされている。このような近代刑法の結論は、ニーチェ哲学によれば、逆に非理性的である。被害者が感情的にならざるを得ないのは、そもそもの加害者の行為が理不尽だからである。そして、理不尽を正すということは、非理性的なものを理性によって正すということである。

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