犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

鈴木美佐子著 『論理的思考の技法Ⅰ ― 「ならば」をめぐって』

2009-08-26 00:25:28 | 読書感想文
p.123~

次の問題を考えてみよう。Aの下記の主張に対して、Bは以下のように反論した。Bの反論は適切か。

A: 「凶悪な犯罪者は再犯の可能性が高いため、死刑制度を存置すべきだ」。
B: 「Aの意見にしたがえば、再犯の可能性が高くない場合は、死刑制度はいらないということになる。しかし、再犯の可能性は別の方法で低めることができるので、死刑制度を存置する必要はない」。

再犯の可能性が高いということから、死刑存置制度はすぐには導出されない。ここには述べられていない前提がある。この問題はAに反論せよという問題ではないが、反論を評価せよという問題であるので、論証の構造をまず把握する必要がある。

(1)凶悪犯罪者の再犯の可能性が高いならば、社会復帰させるべきでない。
(2)凶悪犯を社会復帰させるべきでないなら、死刑にすべきである。
(3)凶悪犯を死刑にすべきであるなら、死刑制度は存置すべきである。
(4)凶悪犯の再犯可能性が高いならば、死刑制度は存置すべきである。
(5)さらに、凶悪犯は再犯の可能性が高い。
(6)ゆえに、死刑制度を存置すべきだ。

このようにAの論証を構成できる。Aのような短い主張を示された場合は、(1)や(2)が述べられていないので、飛躍がある。まずは質問によって、こうした詳しい論証を相手に提示させることが望ましい。(2)を前提として採用していることがわかれば、「復帰させない→死刑」とどうしてなるのかと問うことが必要であるし、この点に反論をおこなうことがもちろんできる。

Bの誤りは、Aの論証を再構成する際に、(4)から「高くないなら存置すべきでない」を導き出せると考えた点にある。反論する相手が述べていないことに対して批判をおこなっても、それは反論としては不適切である。Aに反論するならば、上記の論証を踏まえ、前提をチェックし、その飛躍を指摘したり、代替案があることを示したりして、必ずしも結論は出てこないことを述べることが望ましい。一番大切なポイントは、論証をきちんと飛躍なしに書き、一つひとつの前提をチェックし、前提から結論、あるいはひとつの前提から次の前提への導出に問題はないのかをじっくりと考えておくことである。


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この本は、司法試験受験雑誌『受験新報』の連載を集めたものである。その内容においては、アメリカのロースクールの入学試験であるLSATや、日本の法科大学院の適性試験も意識されている。そして、裁判官に任官できる人は、このような形式論理の事務処理能力が高い人である。しかしながら、裁判が国民の意思を反映しておらず、前例踏襲で官僚的だと批判されるのは、この情報処理能力の高さがもたらす効果であることが多い。特に、死刑のような生命倫理が問題となる場面では、形式論理の処理能力の高さそれ自体の意義が問われてくる。裁判において、上記のような論理的思考力や情報処理能力がすべてであるならば、そもそも裁判員制度が導入される契機がない。

A: 「生命は大切である。ならば、人の生命を奪った者であっても、死刑にすることは許されない」。
B: 「生命は大切である。ならば、人の生命を奪った者は、自らの死刑をもって償わなければならない」。

上記の2つの考え方は、どちらも「ならば」で結ばれていながら、結論が正反対になっている。論理的思考の技法に従うならば、一つひとつの前提をチェックし、前提から結論への導出に問題はないのかをじっくりと考えることになる。そして、上記の2つの考え方は、端的に矛盾している以上、その一方には必ず論理の飛躍があるはずである。それでは、両者が感情的にならずに討論し、純粋に論理を積み上げて論駁を重ねて行けば、この飛躍を埋めることはできるのか。これは不可能である。「生命は大切である」という同じ前提において、「ならば」という同じ接続詞を使っているというそのことによって、論理の飛躍を埋めるのは不可能だからである。飛躍している部分にあるのは逆説であり、あるいは反語であり、行間から示されるものを読んではならないのであれば、形式論理はこの先に進めない。論理の飛躍の指摘合戦が延々と続くのみである。

例えば、次のような犯罪被害者遺族の意見陳述がある。「私は、どうしても被告人を死刑にしてほしいと願っているわけではありません。ならば、私はなぜ被告人に死刑を求めているのか。それは、私が被告人の死刑を望まないのは、私の息子を返してくれる限りにおいてだからです。もしも息子が帰ってくるのならば、被告人は無罪でも何でも構いません。しかしながら、殺された息子を生き返らせて欲しいと言っても、それは無理なことです。ならば、息子を殺した被告人が死刑を免れることは、それと同じくらい無理なことではないのでしょうか」。この文章には、「ならば」が3ヶ所使われているが、いずれも論理の飛躍が確信犯的に用いられている。人の死を願うという極限的な状況においては、「ならば」は必然的に論理の飛躍を示さざるを得ない。生死を含む論理は、正確に語れば語るほど、その論理は逆説に巻き込まれ、根拠は同語反復となるからである。

近代刑法の合理主義に基づく論理は、人の生死について、生き残っている者の視点からしか語れない。人の死は、いつも他人の死である。ゆえに、近代刑法の言語は、そもそも殺人罪を裁いたり、死刑を言い渡す論理の方向性には不向きである。論証をきちんと飛躍なしに書き、一つひとつの前提をチェックし、前提から結論への導出に問題はないのかを考えるならば、上記の遺族の意見陳述は、「死者が生き返るという前提が間違っている」という入口で切られてしまう。そして、裁判は感情に流されてはならず、人は感情でなく論理で考えるべきであり、客観的で冷静な議論の場である法廷には被害者遺族は邪魔だということになる。アメリカのロースクールの入学試験であるLSATや、日本の法科大学院の適性試験がこのような形式論理の能力を判定し、論理的な「ならば」の使う能力を判定するものであれば、それは同時に、論理の飛躍でなければ語り得ぬもの、すなわち「ならば」によっては語れない論理を捉える能力の低さを判定することになる。

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