犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

横浜地検川崎支部・容疑者逃走事件(4)

2014-01-12 22:52:50 | 国家・政治・刑罰

 容疑者は、「被害者に謝罪するために逃げた」と弁解したとのことである。この件がテレビや新聞のトップニュースになり、被害者が強姦された事実が日本中に知らされ、しかもネットの検索で半永久的に残る事態を生じさせ、二次的被害どころか百次的・千次的被害まで生じさせた事実が理解できないのであれば、やはりこれほど人を馬鹿にした話はない。いいように振り回されてばかりである。

 この容疑者は、公判の場に至れば、「人間であれば必ず過ちを犯す」「人は失敗しても何度でもやり直せる」という論理に頼ることが許される。他方で、捜査員が逃走を許した過ちは永久に許されないままだ。また、容疑者が逃走劇の主役としてスポットを浴びれば浴びるほど、その存在を踏みつけられた被害者が忘れ去られる。この非対称性に慣れてしまえば、善悪の判断は容疑者の手に落ちる。

 もし私が、極寒の空の下で徹夜の捜索に駆り出されたのであれば、心の底で次のように思っていたに違いない。「……仕事は山積みだ。容疑者は俺を殺す気か。余計な仕事を増やしやがって。俺が過労死しないかどうかは、容疑者の意志次第なのか。情けない。命を削っている自分が惨めすぎる。……被害者には感謝してもらわないと報われない。私はあなたのために働いて身体を壊しているのだ」。

 姿の見えない容疑者を主役として追い回し、他方で警察官の失態を最大の問題と位置付け、それによって最大の犠牲者が見落とされることになる。しかし、そのような現状に不満を述べてみても仕方がない。現に私は、司法の現場で善悪を法律に委ね、自分自身で善悪を考えず、被害者を内心で踏みつけているしかなかったのである。自分のできる範囲で、罪滅ぼしの偽善を続けるしかない。

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