犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

読売新聞連載「死刑」 第2部・かえらぬ命・(1)より

2008-12-14 23:54:54 | 国家・政治・刑罰
12月11日朝刊より

今年7月22日、坂本堤弁護士一家殺害事件の実行犯、オウム真理教元幹部の岡崎一明死刑囚(48)が自ら再審を請求した。堤さんの妻、都子さんの父・大山友之さん(78)は2か月後、新聞報道で知った。「法廷では反省したかのような態度を示しても、結局、生き延びたいのか……」

友之さんは、再審請求した岡崎死刑囚が死の恐怖を前に、執行を先延ばししているように感じる。そして、先月、松本死刑囚の家族からも再審請求が出された。「これほどあきれたことはない。犯罪の事実は明らかではないか」

「誰も人の死は望まない。死刑が執行されても、何もならない。娘たちは帰ってこないのだから。でも、犯したなりの刑が法律に決められている。制度がある以上、それを守り、粛々と執行してほしいのです」。そう友之さんは思う。慰霊碑の最後には、こう刻まれている。<娘家族の霊の安らぎと社会秩序の安寧を祈る>


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法制度は、時の権力者によって恣意的に用いられるものであってはならず、法秩序は客観的に安定していなければならない。そして、人の生命を奪う死刑は、その権力の最大の発現形態である以上、他の刑罰よりもさらに謙抑性をもって、慎重に行使されなければならない。この論理の正当性は、法律論の枠内では言うまでもないことである。しかしながら、この地球上の人間の存在形式は、この理論のみによってすべて説明し尽くせるわけではない。人間の存在の意味は、生命が問いを人間に投げかけてきたことにある。あるいは、人間の存在の意味は、人間自身が世界に向かって投げつけられた問いそのものである。人間はその人生において、喜び、苦しみ、考え、信仰を抱き、社会的に活動し、生きがいを感じる。殺人とは、このような人生をある日突然、途中で奪うことである。死刑制度だけを哲学的に問い詰めるならば、そもそもの最初の殺人罪が完全に忘れられてしまう。

死刑存廃論の現場で見られるのは、犯罪の抑止力の有無に関する実証的データ、世界の死刑廃止の潮流に関する統計、誤判を低下させる方法の技術論、代替刑としての終身刑の妥当性、残虐な刑罰にあたるのか否かの憲法論などであり、いつも同じところをグルグル回っている。このような論争にはまると、答えが出なくなる。そもそも日本国憲法が保障する人権の中核は精神的自由権(思想良心の自由・表現の自由・学問の自由)であり、その根底には価値相対主義の思想があるとするならば、このパラダイムに従う限り決着が付かないのは当然のこととなる。「死刑廃止論も死刑存置論も、お互いの考え方を認め合って尊重し、違いを理解し合いながら、相互に排除せず末永く共存して行きましょう」という間が抜けた話に収まるからである。実際に被害者遺族が全人生を賭けて立ち向かわざるを得なくなっている問いは、このような客観性信仰に安住したアカデミックな問いではない。

人間の論理は、白を黒と言いくるめ、あるいは黒を白と言いくるめるために用いることができる。A説とB説の論争、すなわち論拠によって主張を補強して相手を説得するというパラダイムに慣れることの恐ろしさは、常に自分を正義の側に立たせ、相手を不正義の側に立たせてしまうことである。このような論理の使用法に慣れてしまうと、自らは強引な論理展開を行い、相手に対しては論理の飛躍を暴いて嬉々とするようなり、この世の物事はそのようにしか見えなくなる。客観的な法秩序の追求は、物事を情報化して現実感を希薄化することによって、最後は特定の主義主張を訴える者同士の主観と主観の争いとなり、なぜか客観性を失う。本来、死刑制度を論じる場合に必要な論理は、白を白と看破し、黒を黒と看破する繊細な論理である。「死刑が執行されても何もならない。娘たちは帰ってこないのだから。だから死刑を望む」。この繊細な論理は、1人の人間としての繊細な想像力によってのみ正確に辿ることができる。

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