犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

大野更紗著 『困ってるひと』

2012-11-25 22:21:18 | 読書感想文

(原因不明の難病を発症した女子大学院生のエッセイです。)

p.101~
 今思えば、あの病院は、わたしにいろんな大事なことを教えてくれた。重度の障害や、難病、あるいは精神疾患を抱えた人たちが、日本社会の中で、どういう扱いを受けているか。「現実」とは「矛盾」とは、何か。弱者にされるとは、どういうことか。研究室にいくら籠っていようが、一生、実感として学ぶことはなかっただろう。正直な気持ちを言えば、あの壮絶な環境をどうやって、誰も傷つけないように書けばいいのか、伝えればいいのか、わたしにはわからない。


p.139~
 一生、この先、病に怯えながら、苦痛に苛まれながら、耐えて、耐えて、なぜそうまでして、生きなければ、ならないのだろう。1月、2月、真冬。極寒。わたしの精神は、いったん、死を迎える。昨今、巷で大流行している「絶望」というのは、身体的苦痛のみがもたらすものでは、決してない。わたしという存在を取り巻くすべて、自分の身体、家族、友人、居住、カネ、仕事、学校、愛情、行政、国家。「社会」との、壮絶な蟻地獄、泥沼劇、アメイジングが、「絶望」「希望」を表裏一体でつくりだす。


p.142~
 ひとが、病や死に直面するというのは、ドラマや小説のようなものじゃない。瀕死の状態、手術中、そういった劇的な「瞬間」は、すぐに過ぎ去ってしまう。病に限らず、現実のものごとに「向き合う」という作業は、長く、苦しい、耐久デスマッチみたいなものだ。そして、その苦しみは、身体的苦痛だけがもたらすものではない。病の症状に耐えるだけで大変な患者を決定的に追いつめるのは、社会のしくみだったりする。患者にとってのデスマッチの相手、「モンスター」は、社会そのものだ。


p.231~
 思考は、完全に停止した。ただ、涙だけが流れた。とめどなく。夕食は、一切喉を通らなかった。薬も飲めなかった。何も話せなくなった。ベッドの上に寝そべっても、トイレに行っても、洗面台の鏡の前で手を洗っても、電気ポットからお湯をくんでも、ただ、涙が、ダムが決壊したかのように流れ続けた。身体の中の水分がなくなってしまうのではないかと思うほどに。最後の糸は切れて、私をつなぎとめるものは、なくなった。

 崖の淵で、すれすれで立っていた。そこで、何の因果か偶然、先生が私の背中を押した。突き落とされた「底」には、言葉も、感情もなかった。誰もいなかった。これが本当の絶望なんだと思った。これがひとの死だと思った。そこには、苦しみ以外に、何もなかった。生きる動機は、なかった。


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 サービス業においては、「困っている方がいらっしゃいましたら、お一人で悩まず、お気軽にご相談下さい」という宣伝文句が溢れています。そして、費用対効果が低いとなれば、相談を適当に切りあげて、上手いことお引き取りを願うのが通常だと思います。法や経済が作り上げた精緻なシステムは、本当に「困ってるひと」の前にはうろたえるばかりです。そして、多くの人が制度の限界を知りつつこれを避け続けてしまえば、社会は、人間を苦しめるための虚構になるのだと思います。

 人間は動物ですが、人間以外の動物は言語を話さず、人間のみが「痛い」という単語を持っています。ここで、身体の痛みは、極めて動物的なものだと思います。そして、言語によって思考する人間において、その言語の対極にある動物的なものが「痛み」だと思います。痛みを感じつつ言葉を失わない人間が、脳内を「痛い」という単語で占領されたとき、思考は停止します。これを言語で表現すると、「痛い!」だけだと思います。言語は、苦悩や絶望が極まれば極まるほどそれを語れず、身体の痛みはさらに切迫していることを思い知らされます。

 これに対し、世の中の痛くない人々によって冗舌に語られる言語は、なべて理屈っぽいものと思います。法的手続きに必要な膨大な書類が膨大であり、複雑な仕組みを構成する抽象概念の山が人々を苦しめていることは、手続民主主義の当然の帰結だろうと思います。外部からの不正や内部の不祥事に正面から対応しようとすれば、結果よりも手続上の公平性・透明性・参加性が求められ、「単に手続が遵守されていればよい」という自己目的化が避けられないからです。そして、人が全人生を賭けた苦痛を語る言葉の前に、抽象概念の束は無力だと思います。

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