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スクールカーストとは、クラス内のステイタスを表す言葉として、近年若者たちの間で定着しつつある言葉です。従来と異なるのは、ステイタスの決定要因が、人気やモテるか否かという点であることです。上位から「1軍・2軍・3軍」「A・B・C」などと呼ばれます。
子ども達は、中学や高校に入学した際やクラス分けがあった際に、各人のコミュニケーション能力、運動能力、容姿等を測りながら、最初の1~2ヶ月は自分のクラスでのポジションを探ります。
この時に高いポジション取りに成功した者は、1年間「いじめ」被害に遭うリスクから免れます。逆に低いポジションしか獲得できなかった者は、ハイリスクな1年を過ごすことを余儀なくされます。私は、ここでのコミュニケーション能力とは、「自己主張力」「共感力」「同調力」の3次元マトリクスで決定されると考えています。
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教育評論家の森口氏の分析は、非常に鋭いと思います。社会科学的な手法の生命線は、分析の正確さと切り口の斬新さ、そして新語の発明によって従来見えなかったものを浮かび上がらせる点にあるとすれば、森口氏の試みは成功しているように思います。
現に、多くの中学・高校生は何よりも孤独を恐れ、大人と同じような空気読み力を身につけることを強いられている点も、「スクールカースト」という概念を使えば上手く説明できます。また、いじめに遭っている者は、自らが「いじめられている」と認めた途端に最下位のカーストに転落してしまうため、自分はいじめられていないのだと言い張ることによって、親も教師もいじめの存在に気付かなくなるという構造も見事に暴き出されています。
しかし、「これが『いじめの構造』です」と言って教育評論家から示された理論が、世の中の問題を一刀両断に解決する救世主となったところを見たことがありません。そして、私がいつも引っかかるのは、社会科学的な仮説と検証のシステムが人間をサンプル化している点です。
いじめ問題に取り組んでいる方々は、誰しも、この社会からいじめをなくしたいと望んでいると思います。しかしながら、多くの教育評論家の語り口から感じるのは、「自分の理論の正しさによっていじめはなくせる」ということであり、他の誰かの理論ではなく自分の理論がいじめをなくさなければならないのであって、結局は「いじめ問題を解決する自分」が好きなだけではないかということです。
この本と合わせて、川上未映子氏と重松清氏のいじめに関する小説を読み、そのような感想を持ちました。
スクールカーストや勝ち組・負け組といったものは「どこに」あるのかという問いは、なかなか理解されないですよね。
スクールカーストの下位に落ちず、負け組にならないためには、まさにその虚構性のルールを学んで社会性を身につけなければならないということなのでしょう。
虚構から完全に自由になれば生存が脅かされますから、生きるというのは大変なことだと思います。
最近ですね、街中で普通に歩いてる人達を見渡してるとふと思うんですよ。
スクールカーストとか勝ち組負け組とか、そういうものは「どこに」あるのか?と。
ただ頭では虚構と分かっていても実際に完全に自由になりきるにはなかなか難しいわけですが。
おっしゃる通り、「スクールカースト」は実在しません。
個人個人が作り出している虚構の概念です。
「学校」「教師」「教育委員会」「いじめ」など、全て同様です。
(『14歳からの哲学』には、「学校」を例に詳しく書いてあったと思います。)
必ず生じる「いじめはあったのか、なかったのか」の争いの不毛さは、
これらの認識を飛ばしている点に尽きると思います。
いや、正しく言えば個人個人が作り出している虚構の概念なのかと。
意識する人にとっては存在するし意識しない人にとっては存在しない。