犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『HACHI 約束の犬』

2009-08-23 00:24:06 | その他
22年前、日本の映画『ハチ公物語』(仲代達矢主演)を見て涙を流したことがあります。この映画を見て、22年前に感動した一瞬のツボのようなものを、全身で思い出すような感覚がありました。これは単に私自身の個人的な感覚であり、社会的には全く意味のないものだと思います。この映画は『ハチ公物語』の洋画リメイク版として紹介され、国境を越えて共感を呼ぶ普遍的なテーマが示されているとの評判を呼んでいるようですが、私自身の驚きは全く別のところにありました。実際に飼い主の上野教授が亡くなったのは大正14年ですから、昭和62年からの22年の歳月など比較にもなりません。しかし、私が引っかかったのは、この22年間のほうであり、しかも社会の流れや変化ではない個人の時間性のようなものでした。

後世の人が初めて忠犬ハチ公の話を聞いたときに受ける印象は、「偉いなあ」と「馬鹿だなあ」の両方だと思います。あるいは、「可哀想だなあ」と「幸せだなあ」の両方かも知れません。いずれにしても、一人の人間の中に相反する印象を生み出し、それが相互に支え合わされているからこそ、この話は今日まで長く語り継がれているのだと思います。言葉を話せない犬は、喜怒哀楽の感情は表現できますが、時間的な前後関係を考えたり、先の出来事を順序立てて想像したりすることはできません。従って、「ハチ公は渋谷駅で上野教授の帰りを待っていた」というのは人間の側の解釈であり、ハチ公自身は待つことも待たないこともできなかったというのが、表現としては正確だと思います。「待つ」という概念を理解したことは、「待つ」という語の文法に従って言語を扱うことによってしか示されないからです。

ハチ公は果たして、上野教授が亡くなったことを理解していたのか。ハチ公の話が感動を呼ぶのは、人間の側がこのような問いを所有しているからだと思います。もし、ハチ公には上野教授が帰ってこないことが現実として理解できず、その帰りを待ち続けていたのであれば、そこには人間が論理的思考力を得た代わりに失ってしまった精神の傾向のようなものが純粋な形で示されてくるからです。逆に、ハチ公は上野教授が帰ってこないことを現実として理解していながら、その帰りを待ち続けていたのであれば、そこには人間が社会常識を気にして抑え付けている精神の傾向のようなものが純粋な形で示されてくるからです。私は22年前には、この問いを無意識のうちに問うており、純粋な感動を覚えていたようです。今回は、この問い自体が文法的に無意味であり、ハチ公ではなく自分自身によって発せられていることに気付いたことにより、なぜか同じ種類の感動を覚えることになりました。

映画評論とは、日本の『ハチ公物語』は脚本や演出がこうである、『HACHI』のほうはどうであるという点を分析すべきものであって、私が書いていることは稚拙な感想だと思います。国境を越えて共感を呼ぶ普遍的なテーマであるならば、22年間の差などむしろ簡単に飛び越えなければならず、見る側の22年間の人生など何の意味もないでしょう。その間に同級生が交通事故やガン、自殺で何人亡くなったなどという話は、単に見る側の個人的な事情であり、他の人にとっては何の意味もない情報だと思います。しかしながら、私にはどういうわけか、この本人以外には意味のない事情のほうが気になります。その結果として、ハチ公が渋谷駅に現れた本当の目的は屋台の焼き鳥屋からもらう餌であり、真実は上野教授を待っていた訳ではないといった類の話に全く興味を覚えないのであれば、期せずして得をしているのかなとも思います。

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