犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

上田閑照編 『西田幾多郎随筆集』より その4

2012-02-09 00:08:37 | 読書感想文

p.76~

 とにかく余は今度我子の果敢なき死ということによりて、多大の教訓を得た。名利を思うて煩悶絶間なき心の上に、一杓の冷水を浴びせかけられたような心持がして、一種の涼味を感ずると共に、心の奥より秋の日のような清く温き光が照して、凡ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た。

 特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。此処には深き意味がなくてはならぬ。人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。死の問題を解決するというのが人生の一大事である。死の事実の前には生は泡沫の如くである。死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる。

 物窮まれば転ず、親が子の死を悲しむという如きやる瀬なき悲哀悔恨は、おのずから人心を転じて、何らかの慰安の途を求めしめるのである。夏草の上に置ける朝露よりも哀れ果敢なき一生を送った我子の身の上を思えば、いかにも断腸の思いがする。しかし翻って考えて見ると、子の死を悲む余も遠からず同じ運命に服従せねばならぬ。悲むものも悲まれるものも同じ青山の土塊と化して、ただ松風虫鳴のあるあり。いずれを先、いずれを後とも、分け難いのが人生の常である。

 永久なる時の上から考えて見れば、何だか滑稽にも見える。生れて何らの発展もなさず、何らの記憶も遺さず、死んだとて悲んでくれる人だにないと思えば、哀れといえばまことに哀れである。しかしいかなる英雄も赤子も死に対しては何らの意味も有たない、神の前にて凡て同一の霊魂である。(後略)


p.317~ 堀維孝あて書簡より

 丁度5歳の愛らしき盛の時にて、常に余の帰を迎えて御帰をいいし愛らしき顔や、余が読書の際傍に坐せし大人しき姿や、美しき唱歌の声や、さては小さき身にて重き病に苦しみし哀れなる状態や、一々明了に脳裡に浮び来りて誠に断腸の思いに堪えず候。余は今度多少人間の真味を知りたるように覚え候。小生の如き鈍き者は愛子の死というごとき悲惨の境にあらざれば真の人間というものを理解し得ずと考え候。


p.385~ 上田閑照の解説より

 「平凡な日常の生活が何であるかを最も深く掴むことに依って最も深い哲学が生れるのである」と西田は言う。その際、深みへの通路は西田にとって生活世界・歴史的世界にひびを入れる「人生の(すなわちこの世に生きることの)悲哀」であった。「哲学の動機は深い人生の悲哀でなければならない」。


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 最愛の人を亡くすという人生の危機に直面して、人が混迷の中を模索するとき、そこで求められるのはお金でも名誉でもなく、言葉です。これは、現実を受け入れるか否かの問題ではなく、そもそも受け入れるにしても受け入れないにしても何故この世界はこのようになっているのかという問題です。この問題に向かうとき、その主語が残された者ではなく、死者となります。

 死とは何か、これを正面から問う学問は哲学のみです。そして、混迷の中を模索する者が、哲学者の著作の中に「死とは何か」という言葉を探しに行くのは当然のことと思います。さらには、その結果として、「難しくて何を言っているのかわからない」「何一つ自分に役に立つものはなかった」との結果に至るのも当然のことと思います。学問的な哲学研究は、極限的な人生の危機に対する言葉の提示には向いていません。

 哲学の言葉が役に立たないとき、その代わりに多くの人に解答と慰めを与えているのが、スピリチュアル的な言葉であると思います。例えば、「その人は死によってこの世のあらゆる苦しみから逃れました」「その人は、あなたが幸せになることを誰よりも強く望んでいたはずです」「悲しみが深いということは、それだけあなたの愛情が深かったということです」「人生には何一つ無駄な出来事はありません」といった言葉群です。上手くできていると思います。

 スピリチュアルでも何でも、他人に押し付けない限りは人それぞれであり、これは思想良心の自由といった理屈を待つまでもないと思います。独我論を拒絶する限りは、人それぞれと言うしかないからです。しかしながら、スピリチュアルの言葉は、それが思考ではなく解答である限り、強制と洗脳の契機が免れ難く生じているように思います。例えば、「あなたとその人との出逢いが運命ならば、この悲しい別れも運命なのかも知れません」「人は誰でも、悲しみを乗り越えて幸せになる義務があります」といった言葉です。

 西田幾多郎の著作を読むと、日本にはこれだけの哲学が存在していたのかと改めて圧倒されます。哲学研究者の多くは、大震災や連日の事故・事件による筆舌に尽くし難い死を横目に、今日も論文の執筆に没頭していることと思います。これは学問の通常の性質です。他方で、最愛の人を亡くした者が死者に代わって死の意味問うとき、哲学からは答えが得られず、ある者はスピリチュアルの言葉に説得力を感じるのだと思います。

 哲学の言葉が答えを提示できず、スピリチュアルの言葉が答えを提示するとき、これはどちらが勝つという勝負の問題ではなく、どちらがより救われるかという問題でもありません。同じような経験をした人同士の間でも相手に介入する権利はなく、ましてや外部からとやかく言う権利は皆無と思います。ただ、西田幾多郎という哲学者の名前を教養として習い、どのような著作を残した偉人だという理解の仕方は、入口が反対であると感じます。

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