犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

海音寺潮五郎著 『悪人列伝・中世篇』

2011-11-22 16:10:30 | 読書感想文
● 梶原景時 (p.84~)
 おそらく彼はインテリにありがちな神経質なところのある人物であったろうし、頼朝の信任を受けているだけに、頼朝の利害についてはよほどに気をくばって、いつも一毫も頼朝に損をさせてはならないと思っていたであろう。
 景時のような性質は官僚によくある性質だ。優秀といわれる官僚には、皆この性質がある。この性質を欠いては官僚たることをつづけることが出来ないのではないかとさえ、ぼくは見ている。思うに、景時は生まれながらにこの官僚的素質をもっていたのであろう。


● 北条政子 (p.152~)
 政子は悪人ではない。常に善意をもって婚家のためによかれと努力しつづけた人であるが、あまりにも勝気であり、賢かったために、夫の在世中にはその独占欲によって夫を苦しめ、夫の死後は子供らの圧迫者となり、ついには実家の父や弟に乗ぜられて、婚家をほろぼすに至った。これに類することは、今日でも世にめずらしくない。
 人の世は善意だけではかえって悪となることが少なくない。政子の一生は、われわれに善意が善となるためには叡智がともなわなければならないことを教えるものであろう。

● 北条高時 (p.192~)
 北条氏の組織が日本人の経済生活の進展につれて御家人層の生態に次第に不適合となり、いろいろな矛盾が発生しつつある時に、未曽有の大国難蒙古の襲来に遭遇した。見事に撃退はしたものの、不適合の度は急ピッチに進み、矛盾は一層大きくなった。時宗の次の貞時に至っては、善政をしきたいとの十分な熱情を抱きながら、どうすることも出来ず、鎌倉幕府の基礎はゆらいで来た。
 高時がたとえ相当に賢明な人物であったにしても、こうなってはどうすることも出来なかったろう。お坊ちゃん育ちの、いささか暗愚な人物であったとすればなおさらのことだ。

● 高師直 (p.238~)
 師直といい、師泰といい、怯者ではなかったはずであるのに、末期の思い切りの悪さはおどろくべきものだ。人は快楽になれると生にたいする執着が強くなるのであろうか、一旦死にはぐれるとどこまでもいのちがおしくなるのであろうか、人間研究の好題目であろう。
 師直兄弟は悪行無慚の人物であるが、当時の人間は彼らの地位におけば、10人のうち8、9人まではこうなったのではないだろうか。上は天皇から将軍・公卿・大名・一武人に至るまで、我欲旺盛の濁りかえった世の中だったようにぼくには見えるのである。

● 足利義満 (p.274~)
 義満は驕児である。祖父も父も、幕府の名はあり、征夷大将軍の名はあっても、統制力のきわめて劣弱な幕府であり、将軍であり、生涯戦争ばかりし、しかもよく負けて都落ちばかりしていなければならなかったのに、彼においてはじめて基礎が確実になり、統制力が出来て来た。彼が驕児となったのはきわめて自然なことである。
 驕児には善・悪の観念はない。無道徳である。第三者の目におのれの行為が善とうつろうと、悪とうつろうと、かまうところではない。彼は彼の欲するままに行なうのである。義満はこれだったと、ぼくは見る。


***************************************************

 「歴史認識」や「歴史を見る目」という概念は、改めてそのように言われると、かえって大袈裟に構えざるを得なくなるように思います。ただ、私自身の心の構えを見てみると、例えば「邪馬台国はどこにあったのか」「幕末の激動と明治維新」「日本はなぜ太平洋戦争に突き進んだのか」といったテーマにそれぞれ向き合う場合を比べてみると、これらを全く別の話として受け止めていることも確かです。私は、その時代、その時代を点として捉えるのみであり、今現在につながる線としては捉えてはいません。

 過去の歴史から何かを学ぶという態度は、上から目線で正誤の評価を与えるか、逆に下から見上げて崇めるか、いずれか一方に陥りがちであると思います。実際のところ、歴史に名が残っている人物は、同時代の多くの人々にとっては偉人でも何でもなく、単に権力を振りかざす者に過ぎなかったはずです。現在で言えば、「俺は法廷闘争で負けたことがない。10人の最高級の弁護士を用意している」と豪語する球団社長のようなものではなかったかと思います。もちろん、現在は刀で斬られるわけではありませんが、命の軽さは程度の差にすぎないとの印象も受けます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。