犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

上田閑照編 『西田幾多郎随筆集』より その2

2012-02-05 00:23:09 | 読書感想文

p.74~

 ドストエフスキーが愛児を失った時、また子供ができるだろうといって慰めた人があった。氏はこれに答えて「どうして別の子をソーニャの代わりに愛することが出来ようか。私が欲しいのはソーニャなのだ」といったということがある。親の愛は実に純粋である。その間一毫も利害得失の念を挟む余地はない。ただ亡児のおもかげを思い出るにつれて、無限に懐かしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思うのみである。

 若きも老いたるも死ぬるは人生の常である、死んだのは我子ばかりでないと思えば、理においては少しも悲しむべき所はない。しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい。飢渇は人間の自然であっても、飢渇は飢渇である。人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという。しかしこれが親に取っては堪え難き苦痛である。

 時は凡ての傷を癒やすというのは自然の恵であって、一方より見れば大切なことかも知らぬが、一方より見れば人間の不人情である。何とかして忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめて我一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。

 昔、君と机を並べてワシントン・アービングの『スケッチブック』を読んだ時、他の心の疵や、苦みはこれを忘れ、これを治せんことを欲するが、独り死別という心の疵は人目をさけてもこれを温め、これを抱かんことを欲するというような語があった。今まことにこの語が思い合されるのである。折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である。死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう。しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。


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 あるところで、「子どもを亡くす逆縁の悲しみは何物にも代えがたい」との心境の吐露に対して、「親兄弟・配偶者を失う悲しみは大したことがないと言われたようで傷付けられた」との感想が向けられているのを目にしたことがあります。これは誤解でも曲解でもなく、同じことを言語化しようとしながら、まさに筆舌に尽くし難い苦悩は言語化できない限界が人間をさらに苦しめている状態だと思います。人は、自己と他者の繊細な心情に誠実であろうとすればするほど、この種の絶望を知るように思います。言葉を書いては消し、また書いては消し、なかなか形にならないということです。

 平穏無事に生きている人間が用いる一般的な意見の表明方法は、賛成と反対の二者択一論です。すなわち、「私はそう思う」「私はそうは思わない」という政治的な意見の対立です。ここでは、「人は話し合えば必ず解り合える」というお花畑の楽観論か、「バカな奴とは話し合っても解り合えない」という上から目線の突き放しに分かれるのが通常と思いますが、どちらも言語の限界からは遠いところの争いであると感じます。我が子の死に際して厳密・誠実・繊細な言葉を求めざるを得ない者の言葉からは、言語への向き合い方の覚悟の違いを感じます。賛成と反対の二者択一論とは次元が違うということです。

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