犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

奥野修司著 『心にナイフをしのばせて』 (2)

2011-11-15 23:35:37 | 読書感想文
p.89~
(加賀美洋君:殺された被害者、くに子さん:洋君の母親、みゆきさん:洋君の妹です。以下はみゆきさんの独白の部分です。)

 兄の死がわかってくるにしたがって、わたしは1人で苦しむようになった。あるときなど、これまで見たこともないお花畑が、見るも鮮やかなつつじ畑に変わったかと思うと、突然血の海となった夢を見たことがある。この苦しさを誰かに打ち明けたい。そう思いつつ、誰にも打ち明けられず、じっと堪えることで精一杯だった。

 そしてもう1つ、かろうじて崩れずにいた家族を、自分なりに守りたかったのだと思う。家では母が毎日泣き明かすような生活をしていたし、父も涙こそ見せなかったが、泣いているのはわかっていた。私は母に、「お母さん、泣けるほうが楽だよね」と言ったことがある。辛くて泣くのはわかるけど、泣かないで頑張っている父はもっと辛いんだよ、と。よく考えるとひどい言い方だ。そんなことを母に言った自分が恥ずかしかった。

 1人で堪えているそんな父の前で、もしわたしが泣いたらどうなるだろう。わたしたちは薄氷の上を歩いているような家族だった。たった一発の銃声で雪崩が起きるように、かろうじて維持していた家族関係が、わたしの流す涙でガラガラと崩れてしまうことだってある。わたしはそう思って、泣くことをやめた。

 もちろん泣くことだけではない。笑いも忘れたし、怒りもどこかへ行ってしまった。自分の中の感情を抑えつけることで、わたしはわたしなりに家族を守りたかったのだと思う。それが大人には理解できなかったのだろう。だから、「兄が死んでも平然としている恐ろしい子」に映ったんだと思う。それを説明しなかった自分も悪いが、子供であっても、悲しみは大人と変わらないことに気づいてほしかった。


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 「我が国の刑事司法は長らく被害者の存在を忘れてきた」と言っても、人は実際に目の前で見えている者の存在を忘れられるわけがなく、これは過失による見落としではないと思います。裁判官・検察官・被告人という三極構造が前提とされ、その間で職権主義と当事者主義という対立軸があるとき、被害者はその論争の構造から排除されます。例えば、野球やサッカーのテレビ中継で選手とボールを注視しているとき、観客席の人間は目に見えていても実際には見えていないような感じだと思います。

 デジタルな法律論からすれば、被害者側の意思は、「厳罰感情が強い」と「厳罰感情が強くない」の2種類しかありません。ここからどのように理論を展開しても、ステレオタイプになるのは当然だと思います。こうなると、恨みか赦しか、憎しみの克服、前向きに生きるといった議論に流れ、刑事司法は被害者の存在を渋々思い出して変形しているにすぎなくなります。怒りどころか笑いの感情もなくなった、感情というもの全てを失った、従って「厳罰感情は強くない」という流れは、法律論の手に余るはずだと思います。

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