犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

高野悦子著 『二十歳の原点ノート』 (2)

2012-06-24 00:05:58 | 読書感想文

1966年(昭和41年)1月29日
 17歳のまだ人生の出発点にも至らない若者が、自分の信念を貫かず、ぬるま湯の矛盾の中にいすわっているとは何たることだろう。自分の信念を貫かず、安易な矛盾にみちた思想で生きていくことは、本当に偽善家の人生であり、その生活は輝きあるものではない。人と話をするのは、優越感を持つためにでもないし、利益を得るためでもない。


1966年2月10日
 社会の中にあってこそ、人間は人間である。社会に中にあるということは、存在ということだけではなく、もっと積極的な意味、社会への働きかけがあるということだ。そこで「働きかけ」が問題になってくる。行動は精神を伴う。精神だけはいかにりっぱなものであろうと、行動となりえない。


1966年3月22日
 きれいな人と言われるより、美しい人と言われた方がよい。どうしてかというと、きれいな人というのは、いわゆる顔のきれいない人という意味に聞こえる。美しい人というと、心も共に本当に美しい人をさすような気がする。中年の人の顔というのは、その人を表すということがよく言われる。人間の顔でおもしろみのでてくるのは中年のころからだといわれる。これは、人の心がその人の顔をつくるということなのだ。


1966年11月22日
 自分の本当の感情は底に沈ませて、装うぐらいの人でないと、自分の信念を行動には移せない。


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 若いということは未熟であり、半人前であるというマイナスの捉え方は、社会において実に正常な認識だと思います。少なくとも、若さが武器とされ、そのために前倒しの生き方を強いられ、生きることを急がなければならない社会に比べれば、商品化されない人間の主体性が残されているように感じます。

 20歳という年齢を頂点とする構造においては、その後の人生は成長でも成熟でもなく、老化及び商品価値の下落と捉えられざるを得ないと思います。しかしながら、老いることの拒絶は生きることの否定と同義であり、自然の摂理に逆らっているとの感を受けます。前田敦子さんのAKB卒業と高野悦子さんの自殺は同じ20歳ですが、これを捉える社会の側が彼女らに与える精神年齢の差は大きいと思います。

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