犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

被害者を見落とす啓蒙思想

2007-03-02 19:59:54 | 実存・心理・宗教
近代刑法は、啓蒙思想の社会契約論を前提とする。ニーチェが鋭く懐疑の眼を向けるのは、この啓蒙思想の欺瞞性である。その懐疑の根本は、社会契約なるフィクションが人間存在にとって端的に不自然であるという単純な事実である。

啓蒙思想の社会契約論は、強大な国家権力と無力な市民という対立構図を前提としており、弱者たる市民は国家権力の濫用を監視しなければならないという思想につながる。ニーチェによれば、このような市民の弱者性の強調は負け惜しみの屈折した状態にすぎず、民主主義とは弱者支配の形態にすぎないとされる。

負け惜しみの構造それ自体は、さほど害ではない。弱者たる市民と強大な公権力という善悪二元論のパラダイムは、それなりに上手く作用している場面も多い。例えば、公権力を訴える行政裁判や、国家機関に慰謝料を求める民事訴訟である。市民グループや人権派弁護士が、公権力による日の丸・君が代の強制に反対して争うような場面では、弱者たる市民と強大な公権力という善悪二元論のパラダイムが上手くあてはまる。刑事裁判の中でも、薬物自己使用罪などの「被害者なき犯罪」については、やはりこのパラダイムが上手くあてはまっている。

問題なのは、被害者の存在する犯罪である。このような犯罪の現象に対して、弱者たる市民と強大な公権力とパラダイムをあてはめるならば、当然に大きなひずみを生ずる。被害者と加害者、そして加害者たる被告人と国家権力という三元的な状況を、無理やり二元論に押し込まざるを得なくなるからである。近代啓蒙思想の社会契約論では、このような三元的な状況を上手く捉えられない。もし二元的な近代刑法の原則を原理的に押し進めるならば、加害者を弱者たる市民に位置づけて、被害者のほうは切り捨てるしかなくなる。

このように、啓蒙思想の社会契約論には、被害者を無視するパラダイムの根源が隠されている。ニーチェは、この啓蒙思想の不備を徹底的に見抜いた。しかし、現在の専門的に細分化した法律学は、社会契約論と近代刑法の大原則から一歩も動こうとせず、その枠内で被告人の人権と被害者の人権を両立させようとしている。これでは、仮に両者が両立したとしても、被害者の人権は非常に弱いものにならざるを得ない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。