犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

強弱の二層構造

2007-03-03 20:28:59 | 実存・心理・宗教
ニーチェは哲学者であると同時に、優れた心理学者でもあった。ニーチェ心理学は、人間が心理的なものによって、この世のありのままの事実をねじ曲げている欺瞞性を指摘する。人間には強弱の差が存在する。この当然の事実を率直に捉えることから、ニーチェ哲学はスタートする。人権論の「平等」というイデオロギーは、弱者をますます弱者に固定するための構造を助長するものでしかないとされる。

啓蒙思想の社会契約論、そして人権論から派生する近代刑法の思想は、市民は無力で弱く、公権力は強大で濫用されがちであるとオーバーに主張する。そこでは、自由であるべき人間が警察権力から逮捕され、密室に勾留されて取り調べを受け、心身ともに追い詰められた中で自白を強要され、最後には残酷な刑罰を受けるという文脈が支配的となる。このような文脈それ自体は、内容的に間違っていない。しかし、どうにも不自然なのが、そもそもすべての原因である最初の犯罪行為の残酷さを意図的に眼中から排除しているという点である。

犯罪という現象を端的に捉えるならば、強弱の形は二層の構造をしている。悲惨な犯罪によって人生を奪われ、人生を狂わされた被害者は、本人の意に反して社会的弱者に転落させられている。そして、そのような社会的弱者を自分の行動によって生じさせた加害者は、相対的に強者である。しかし、加害者は国家刑罰権力との関係では被告人であり、刑罰の危険に直面してそれを防御すべき弱者とされる。このように、全く同じ人物が、加害者としては強者、被告人としては弱者としての性格を有することになる。被告人にはこのような二重性がある。

しかし、人権論から派生する近代刑法のパラダイムは、そもそも国家権力と市民の人権という枠組みしか捉えていない。従って、被告人は国家権力に対して絶対的に弱者とされ、二層の構造のうちの一層しか捉えない。言わば、「犯罪は現場で起きているのではなく、法廷で起きている」というパラダイムである。もちろんパラダイムというものは、人間の言語によるこの世の現象の切り分け方であるから、単なる仮説に過ぎず、絶対的なものではあり得ない。当然にひずみが生ずる。

被告人は警察権力の強引な捜査の不当性を訴え、自らは弱い存在であり、取調べで悲惨な目に遭ったと声高に主張する。このような強弱の固定したパラダイムの下では、被害者が無視されるのは当然である。二層の構造を見ようとしないからである。このような人権論と近代刑法のイデオロギーで頭が固まってしまえば、もはやそこから動けなくなる。人権派と言われる人達は、都合の悪い凶悪犯罪の時には沈黙を貫くが、冤罪事件が発覚したとなれば急に能弁になり、正義の味方となる。

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