親の子に対する愛情、子の親に対する愛情は無条件である。夫の妻に対する愛情、妻の夫に対する愛情も無条件である。これと同じように、最愛の人の命を奪った犯人への報復感情も無条件である。愛情と報復感情は裏表である。この無条件の根拠は、理屈で説明しようとすればするほど遠ざかってしまう。理性の降参である。
個人的な復讐を禁止し、国家が刑罰権を独占しているシステムにおいては、遺族の犯人に対する報復の場は裁判の法廷に限られてくる。刑法学の常識では、裁判は報復の場であってはならないとされており、遺族の裁判参加に対する消極論の論拠もここにある。しかし、人間の実存というものを考えるならば、裁判の法廷はむしろ遺族の報復の場であらねばならない。人間の本性からすれば、それがごく自然だからである。
裁判は報復の場であってはならないというイデオロギーも、人間の報復感情それ自体の存在を消すことはできない。最愛の人に対して無条件に生じる愛情と、それの裏返しである犯人への報復感情は、極めて人間的なものである。逆に言えば、その感情を無理やりに封じ込めている裁判システムは、極めて非人間的である。この端的な事実は、どんなに法律の理論を持ち出して正当化しても、消し去ることができない。
遺族の報復感情が法廷に持ち込まれれば公正な裁判が害されるという法律の理論は、あくまでも遺族に対する非人間的な仕打ちの上に構築されている。遺族の不満と苦しみの上に成り立っている。刑法学が自らの理論の負の部分を忘れ、単なる必要悪の仮説に過ぎないという謙虚さを失ったとき、その理論は批判を許さぬ原理主義となる。そのような原理主義は、自らの体系の維持に苦しみ、いずれは崩壊せざるを得なくなる。
個人的な復讐を禁止し、国家が刑罰権を独占しているシステムにおいては、遺族の犯人に対する報復の場は裁判の法廷に限られてくる。刑法学の常識では、裁判は報復の場であってはならないとされており、遺族の裁判参加に対する消極論の論拠もここにある。しかし、人間の実存というものを考えるならば、裁判の法廷はむしろ遺族の報復の場であらねばならない。人間の本性からすれば、それがごく自然だからである。
裁判は報復の場であってはならないというイデオロギーも、人間の報復感情それ自体の存在を消すことはできない。最愛の人に対して無条件に生じる愛情と、それの裏返しである犯人への報復感情は、極めて人間的なものである。逆に言えば、その感情を無理やりに封じ込めている裁判システムは、極めて非人間的である。この端的な事実は、どんなに法律の理論を持ち出して正当化しても、消し去ることができない。
遺族の報復感情が法廷に持ち込まれれば公正な裁判が害されるという法律の理論は、あくまでも遺族に対する非人間的な仕打ちの上に構築されている。遺族の不満と苦しみの上に成り立っている。刑法学が自らの理論の負の部分を忘れ、単なる必要悪の仮説に過ぎないという謙虚さを失ったとき、その理論は批判を許さぬ原理主義となる。そのような原理主義は、自らの体系の維持に苦しみ、いずれは崩壊せざるを得なくなる。