犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

実存的な問いに直面するとき

2007-03-15 19:42:55 | 実存・心理・宗教
人間は苦しみに直面したとき、「なぜ自分はこんなに苦しまなければならないのか」と自問する。これは、人生そのものに関する哲学的な実存の問いである。平凡な日常から離れて、犯罪という非日常的な事態に巻き込まれたとき、このような実存的な問いが自然に降ってくる。

被害者が「なぜ自分はこんなに苦しまなければならないのか」と自問するとき、それは哲学的な実存の問いでしかあり得ない。法律的な問いに変換することはできない。そして、その答えを導く道筋は、完全に加害者の言動に依存している。最終的には厳然たる現実を受け入れるとしても、そのための最低条件として、加害者がすべての真実を語ることが必要となってくる。被害者が自分で考えられる状況になるのは、その先のことである。被害者が苦しんでいることの理由は、すべて加害者が握っている。加害者がすべてを語ることによって、被害者はようやく実存的な問いの入口に立つことができる。

これに対して、加害者も自らの責任において非日常的な犯罪という事態に直面しており、これが哲学的な実存の問いをもたらす。そして、「なぜ自分は罪を犯してしまったのか」という問いが良心の呵責という苦しみを生み、「なぜ自分はこんなに苦しまなければならないのか」という自問に至るとき、これが真っ当な実存の問いとなる。ここでは自分自身の罪と向き合い、自分の頭一つで精緻な概念化と言語化をすることが要求される。加害者がこの作業をすることよって、初めて被害者の問いの解答への条件が与えられる。

しかしながら、法律学のパラダイムは、加害者が自分自身にこの問いを問うことを邪魔する。その1つは、専門用語による思考の混乱である。自分の頭一つで精緻な概念化と言語化をする過程にとって、人工的な法律用語の流入は大きな障害である。2つ目には、「なぜ自分はこんなに苦しまなければならないのか」という問いを、人権論の問いに変換してしまう誘惑を提供することである。すなわち、犯罪による良心の呵責という苦しみから目を逸らし、留置場に勾留される苦しみ、取調べを受けることの苦しみに変換してしまう。これも一応は加害者の人生そのものに関する実存の問いであるため、通常の人間であれば無意識のうちにその方向へ流される。

哲学的な実存というものを突き詰めれば突き詰めるほど、加害者がすべてを正直に語ることによって被害者保護の最低条件が与えられるという単純な事実に突き当たる。そして、これを直視すればするほど、この単純な事実を受け止めることができない近代刑法のパラダイムの無力さが際立ってくる。

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