犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

存在への問い

2007-03-17 19:00:43 | 時間・生死・人生
ハイデガーが20世紀最大の哲学者だと言われているのは、ギリシア哲学以来2000年以上も問われている「存在論」を新たな視点から問い直したことによる。プラトン(Plato、B.C.427-B.C.347)やアリストテレス(Aristotles、B.C.384-B.C.322)が考えていた「存在」の問いを、人類の2000年の試行錯誤を経て再びゼロから捉え直したのがハイデガーである。

哲学という学問は、形を変えて同じ問題をずっと問い続ける。これは、時代の流行を追わず、あえて時代の要請を拒否することでもある。新しいものは、いつか必ず古くなる。時や場所によって答えが変わるものが普遍的な真理であるはずがない。哲学の議論は、一見すれば社会の役に立たないようであるが、実はどの時代にもあてはまる真理を捉えている。普遍的であるということは、時代を超えて正しいということである。普遍的な真理は、時代遅れになることがない。

これに対して、社会科学である法律学のパラダイムは、時代の流れを追うことが宿命となる。改正されて古くなった法律の条文には何の意味もない。常に時代の最先端を走り、未来志向によって生産性のある議論が求められる。ここでは、過去に執着すること自体には意味がなく、それを生かして理想の社会を建設することが目的となる。このようなパラダイムにおいては、犯罪という現象も未来志向のうちに捉えられる。刑罰というものは犯罪者の社会復帰のためのものであり、被害者には1日も早い立ち直りが求められる。そして、犯罪行為は判例のデータとして蓄積されて、将来のために生かされる。

このような法律学のパラダイムには、犯罪被害者の直面している問題を捉えそこなう弊害がある。犯罪被害者が悩んでいる問題は、未来志向では解決できない。法律学は客観性を重視する社会科学である以上、「被害者一般」というものを政治的に捉え、それに対する法律の適用を問題とする。これが法律学の本質である。しかし、犯罪被害者の直面している問題は、「その被害者」は世界に1人しか存在しないということである。法律学は「被害者一般」という視点から、「その被害者」という側面を軽視しようとするが、実際に世の中に存在するのは個々の「その被害者」の集合でしかあり得ない。

「その被害者」は世界に1人しか存在しないという視点は、哲学的な「存在」への問いを有していなければ、あっという間に逃げてゆく。法律学がこの視点を持たずに犯罪被害者対策を進めれば進めるほど、犯罪被害者が真に直面している問題の解決は遠ざかる危険性がある。

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