犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

長山靖生著 『貧乏するにも程がある』

2008-03-02 23:39:56 | 読書感想文
人間が物事を集中して深く考える際に最も障害になるのが、経済的な心配事である。先行き不透明な社会で、自分の将来が心配だ。このような悩みは、哲学的な「生老病死」の苦悩と似ているが、多くの場合、その方向性は異なっている。従って、いつまでも結論が出ない。思考を深める際には、やはりある程度経済的な基盤がしっかりしていることが必要であるし、生活の話と存在の話の間には距離を置くことが必要である。生活が逼迫していては、思考がどうしてもそちらの方向に引っ張られる。この意味で現代の情報化社会は、自分の頭でものを考えるには、非常に条件が悪い。

「勝ち組」「負け組」という二分法が社会に蔓延したことの最大の弊害は、経済以外の規準がないという点に尽きる。階層の差はあっても、そこにはもはや階級闘争さえ起こらない。勝負はあらかじめついてしまっている(p.18)。勝ち組の対極にある負け組には、金がないだけでなく、勝ち組の情報戦略に乗せられている側であり、頭が悪いというレッテルまで貼られることになった(p.25)。ワーキングプア対策を求める運動も、つまるところ仕事を金だけで測る価値観に同調してしまうきらいがある。しかしながら、人はパンのみにて生きるものではない。パンさえあればいいというのでは、いかにも貧しい(p.239)。

「勝ち組と負け組の二分法などおかしいのではないか」、このように声を大にして叫べば、それは負け組の発想だと突っ込まれる。「人生は金ではない」と言えば、それが負け組なのだと定義付けられる。「自分は負け組でも気にしない」と言えば、それが負け犬の遠吠えだと言われる。「自分は負け組の道を選ぶ」と開き直れば、それは勝ち組になりたいことの裏返しだろうと執拗に揶揄される。結局のところ、「勝ち組」「負け組」という二分法は、それが経済という原理的な規準に基づくがゆえに、これを否定することができない。このような形で1人の人格を生きるしかない人間を、どちらかに分類するというならば、人間は必ずどちらかに分類されるからである。

明治から昭和初期までの作家は、この二分法によれば、多くは「負け組」に分類される。貧乏な上に破滅型だった石川啄木、極貧ゆえに家族を解散した葛西善蔵、借金魔であった内田百など、筋金入りの負け組である。しかし彼らは、それ以外の人生が送れなかった人達である。貧乏でない石川啄木は、もはや啄木ではない。勝ち組をうらやましく思うがゆえに、自身は絶対に勝ち組になどなりたくない。これは非常に贅沢な人生であり、幸福でもある。「勝ち組」「負け組」の二分法を克服するヒントはここにある。人は生きるために食べるのか、それとも食べるために生きるのか。

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