犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある児童虐待事件の光景

2010-02-28 23:46:26 | 実存・心理・宗教
 その一報を聞いたとき、彼(児童相談所職員)は来るべき時が来たと思った。全身の10か所以上に内出血があり、数か所にタバコによる火傷があれば、虐待が行われていると疑うのが通常である。しかしながら、児童相談所職員の公式見解としては、そんなことは口に出せない。
 世間はいつものように、「児童相談所の怠慢により救われるはずの命が救えなかった」との問題意識で構造を作り上げるだろう。これから当分の間は、抗議の電話や手紙への対応で忙しくなるかも知れない。相談所の窓口としては、前例に従い、「しつけと虐待の見極めは非常に難しいんです」「虐待がないのに行政が介入してしまっては大問題です」と答えてやり過ごすしかないのだろうか。彼は、わずか5歳で失われた女の子の命を悼む余裕のない自分の境遇を恨んだ。

 女の子の父親は、娘は階段から滑って落ちたのだ、叩いたのはしつけだと彼に繰り返し説明していた。彼がそれでも食い下がると、父親は「お前に何がわかるか」「殺してやる」「ふざけるな」「死ね」と怒鳴り、彼を追い返した。女の子も、「パパは優しい」「いじめられたことはない」と話し、彼にいつも笑顔を見せていた。女の子の母親は、「ここで娘を連れて行かれるなら死んでやる」と彼をなじった。
 彼はふと、女の子の両親がここまで言うのであれば、本当は虐待は存在しないのではないか、自分の考えすぎではないのかと思い始めた。そして、子供ならばたまには誤ってアイロンやポットを倒すこともあるだろうと考えた。その結果として、もう少し様子を見る必要があり、緊急の対応は不要だとの結論を導き、課長に報告していた。これは、彼自身の精神の防衛のため、無理に自分をそのように思い込ませ、女の子の命を見捨ててしまった結果に他ならない。

 傷害致死容疑で逮捕・勾留された両親の取り調べの報道に接し、彼は頭が混乱してきた。両親は頑として致死罪への関与を認めず、「すべてはしつけであった」「行き過ぎはなかった」と繰り返している。
 彼は、それは全くその通りだろうと思った。彼は連日、女の子の両親からそのように聞かされていたからである。それゆえに、彼は虐待は存在しないと最終的に判断したのであった。両親の主張が通るのであれば、彼が責められる筋合いはない。当の本人が虐待はないと主張し、それが弁護士によって正当化され、さらに無罪の推定や証拠裁判主義の理論によって傷害致死罪での立件が見送られ、傷害罪で起訴されるのであれば、そこに第三者が踏み込んで責任を感じる必要があるだろうか。
 しかし、この世間の常識は、両親に人間としての常識が期待できなくなればなるほど、さらに児童相談所の怠慢により命が救えなかったことを責め立てる。そして、自己犠牲的な多くの職員が、理想と現実の狭間で苦しんで燃え尽きていく。

 彼は係長とともに、所長室に呼ばれた。課長は、この問題を児童相談所の不祥事と捉え、責任の所在の明確化と今後の課題を所長に訴えた。彼は、課長は5歳で失われた女の子の命には興味がないのだと思った。
 課長は、女の子の両親に対して弱腰であった彼の責任は免れないとの見解を示した。そして、クレームは虐待の存在を隠す方便である以上、今後はクレームを恐れることなく、毅然とした態度を取るべきだと結論付けた。
 彼は、それで全く問題がないと思った。女の子の両親が傷害致死罪で起訴されないならば、この世で誰が女の子の命の重さを背負えるというのか。子供にとって最愛の存在であるはずの両親に裏切られ、命まで奪われたのであれば、その人生には何の意味があったというのだろうか。子供は親を選べない。この哲学的真理の前には、責任の所在など些細な問題でしかない。

 所長は彼に述べた。「国民の公務員に対する視線は厳しいんだから、税金泥棒と言われないように頑張ってくれよ」。続いて課長も述べた。「我々はそれだけ重い職責を担っているんだから、しっかり自覚を持ってくれないと困るよ」。彼は、自分もそろそろ燃え尽きる頃だと思った。


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フィクションです。

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